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きのくに子どもの村通信より

堀 真一郎 (ほり しんいちろう)

1943年福井県勝山市生まれ。66年、京都大学教育学部卒業、69年、同大学大学院博士課程を中退し大阪市立大学助手。90年、同教授(教育学)。大阪市立大学学術博士。大学3回生のときにニイルの自由学校「サマーヒル・スクール」の存在を知る。「ニイル研究会」「新しい学校をつくる会」の代表をつとめ、92年4月、和歌山県橋本市に学校法人きのくに子どもの村学園を設立。94年に大阪市立大学を退職して、同学園の学園長に専念。宿題がない、テストがない、チャイムが鳴らない。週1回の全校集会を含むミーティングは子どもが議長。ニイルとデューイを実践において統合した教育を方針とするため自由学校を創設した。

【Vol.14】教育学の論点(2)

投稿日:

きのくに子どもの村通信より 
教育学の論点(5)

学校法人きのくに子どもの村学園
かつやま子どもの村小・中学校
かつやま子どもの村小・中学校の教育目標は「自由な子ども」です。生き生きとし、好奇心旺盛で、集団生活に必要なマナーを身につけている子どもです。

〒911-0003 福井県勝山市北谷町河合5-3
TEL 0779-83-1550 FAX 0779-83-1833
http://www.kinokuni.ac.jp/katsuyama/


自由か統制か

■神様の代理人
 ムチを惜しむ者は、その子を憎む。子を愛する者は、つとめてこれを凝らしむ。

 旧約聖書の中のよく知られた一節である。子どもは、注意深く導かないと、善への道を踏み外して悪に向かう。だからつねに管理ざれ矯正されねばならない。もちろん大人も、正しい道を歩むとは限らない。子どもも大人も、つねにスーパー権威としての神のことばと、神の代理人としての牧師によって導かれなくてはならない。

 おかしなことに人は、生物学的に親になり、教職についた途端に、「だれでも初めは子どもだった」ことを忘れ、神と牧師の代理人を自認する。神と牧師と親と教師が、そろって子どもに「悔い改めよ」と迫るのだ。

 ある男の子がたずねた。

  「ねえ、お父さんや学校の先生って、ほんとうにえらいの?」

 どれだけの人が、この問いにまともに答えられるだろうか。

■権威を捨てよ
 ニイルは「答えられない」と自覚した教師だ。

 「だれであれ、他人に『かく生きるべし』と教えられるほど偉大な人はいない。」

 「私には、人生の究極の理想が何かわからない。そんな私に子どもを導くことができるだろうか。私にできるのは、子どもの傍らに立って援助することだけだ。権威を捨てよ、という私の持論の根拠はここにある。」

 ニイルは教師としての理想を捨てたのではない。むしろ確固とした理想を抱いていた。いかなる既成の権威からも解放され、自分自身の生き方をする人間になって欲しい、という強い願いである。ニイルは、神のような超越的存在を仮定して、それを自分の生き方と教育の拠り所にする人たちを非難する。そして逆に一人ひとりが、自分自身の「魂の船長」として、人生をまっとうする態度と力を身に付けるのを援助したいと考える。

■学力が心配
 サマーヒルは、子どもが自分に気付き、肯定し、生き方を考え、社会的生活の知恵が身につくのを援助する共同生活の場である。全人教育の場といってもよい。しかし自由か銃制かの問題は、もっと低い次元で、つまり「学力はつくか」という問題として論じられる方が多い。

 きのくにの中学校では受験指導はしない。勉強せよともいわない。情報は提供するが、特定の高校を勧めたり止めたりしない。自分の進路は自分で見つけ、切り開いてもらいたいからだ。こういうと、多くの人が疑わしそうにたずねる。
「それで学力は大丈夫ですか。よい高校に入れますか。」こういう質問は、二重の誤った前提から生まれる。つまり、

?大人が指導しないと子どもは怠ける。
?教育の目的は、知識を覚え、有名学校に入ることだ。

 最初の前提は、きのくにの子どもを見れば、すぐに迷信だとわかる。どの子も、興味あることや学び甲斐のあることを見つけ、びっくりするほど熱中する。無味乾燥なドリルや、押し付けの学習は敬遠する。それが健康な子どもの姿である。

■国家主義の教育観
 いま世の中では「百ます計算」なるものが大流行だ。計算の反復練習が、東大や京大への道を開くという。計算ができれば、受験戦争で多少のクスリにはなるだろう。しかし学力がつくわけではない。また有名大学への入学だけが教育の目的ではない。

 京大教授(経)の西村和雄は学力低下論の急先鋒だ。彼は、学生の数学の学力低下が目立ち始めたのは、1980年代前半からで、その元凶は「ゆとり教育」だという。

 こじつけである。80年代前半の大学入学者は、実は史上もっとも算数と数学を重視した70年代の学習指導要領で教え込まれたのだ(小1の教科書に集合が入った等)。「ゆとりの時間」は、その反省として導入された。事実関係を間違えてはいけない。西村はさらに、大学院生ですら数学がダメだと嘆く。その前の四年間、大学教師は何をしていたのか。みずからの指導力の低下を恥じるべきだ。

 学校とは既成の知識の伝達の場、教育とはよい学校へ入れ国際競争に勝つ人材をつくること。この常識はなかなか根強い。この前提条件がそのままでは教師中心主義は崩れない。

 学力低下は、社会問題として論じられている。国際競争で負ける、という危機感が彼らを駆り立てるのだ。個人の幸福のための幸福という観点から見れば、教科書の知識や技能が不十分でも、立派に、そして幸せに生きることができる。むしろ狭義の学力一辺倒の、したがって教師中心の管理主義が、多くの子どもの心を蝕んできたのだ。

 教育は、国家のために行われるのか、個人の幸福のためのものか。それが意識されないと、学力問題は不毛の論争になるだろうし、現にそうなっている。

■自由学校の教師
 学力低下論者は、知識と技術を教え込まないと国際競争で遅れをとる、といって焦る。自由学校の教師は、真に自立し探求心おう盛な子どもの育成こそが結果として社会の発展につながると考える。

 自由学校の教師は、既成の権威主義のカリキュラム(学習指導要領)にとりつかれていないし、アメ、ムチ、はずかしめ、将来へのおどし、巧妙な操作などによって、子どもに学習させようとは考えない。

 自由な学校では子どもを放っておく。このように思い込んでいる人は意外に多い。これは大きな誤解だ。確かに子どもを従えるための手練手管は使わない。しかし子どもが興奮して挑戦し、その結果としてさまざまな幅広い力を身に付けるように念入りに工夫する。 

 自由学校の教師は指導性を放棄したりはしない。しかしその指導は、環境や活動を周到に用意することによって行われる。デューイのいうように、子どもを導くのは、教師その人ではない。活動と環境である。

 自由学校の教師は、管理主義と画一主義と書物中心主義の学校の教師よりも、はるかに忙しい。しかし比較できないくらい楽しい。そして自分自身が成長の喜びをたっぷりと味わうことができる。

 

- きのくに子どもの村通信より - 2008年10月発刊 Vol.14

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