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きのくに子どもの村通信より

堀 真一郎 (ほり しんいちろう)

1943年福井県勝山市生まれ。66年、京都大学教育学部卒業、69年、同大学大学院博士課程を中退し大阪市立大学助手。90年、同教授(教育学)。大阪市立大学学術博士。大学3回生のときにニイルの自由学校「サマーヒル・スクール」の存在を知る。「ニイル研究会」「新しい学校をつくる会」の代表をつとめ、92年4月、和歌山県橋本市に学校法人きのくに子どもの村学園を設立。94年に大阪市立大学を退職して、同学園の学園長に専念。宿題がない、テストがない、チャイムが鳴らない。週1回の全校集会を含むミーティングは子どもが議長。ニイルとデューイを実践において統合した教育を方針とするため自由学校を創設した。

【Vol.21】学校づくりのこぼれ話(2)休校施設払い下げ交渉

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きのくに子どもの村通信より  学校づくりのこぼれ話(2)休校施設払い下げ交渉

学校法人きのくに子どもの村学園
かつやま子どもの村小・中学校
かつやま子どもの村小・中学校の教育目標は「自由な子ども」です。生き生きとし、好奇心旺盛で、集団生活に必要なマナーを身につけている子どもです。

〒911-0003 福井県勝山市北谷町河合5-3
TEL 0779-83-1550 FAX 0779-83-1833
http://www.kinokuni.ac.jp/katsuyama/

日本で初めて
 「廃校利用の学校は、わが国最初のケースです。必ず成功させてください。」

 七年前、かつやま子どもの村小学校の認可が間近な頃、東京から激励の電話を受けた。相手は文部省の地位のある人だ。

 その十年前、私たちは橋本市との彦谷小学校の払い下げ交渉で悪戦苦闘していた。この学校は、87年3月19日の卒業式を最後に無期限の休校に入った。その翌日、新しい学校をつくる会主催の説明会が開かれ、校区の住民全員の署名付きの要望書が市に出されたのだ。

 学校がなくなれば過疎はますます進む。やがて村が死に絶える。それに子どもの声が聞こえない村など耐えられない。どうしても学校を。これが区長の岡室さんはじめ、村の人たちの悲痛な叫びであった。

市へ要望書提出
 橋本市の反応は芳しくなかった。理由はいくつか考えられる。
 ?丹生川にダム建設の計画があり、彦谷地区や周辺道路が将来どうなるか未確定だ。
 ?民間に譲渡すると、校舎建築時の文部省の助成金の大半の返却を求められる。
 ?計画の母体である「つくる会」に実績と信用がない。
 ?彦谷と市の関係はゴミ処理場などでぎくしゃくしている。
 ?橋本市にも社会全体にも新しい学校に対する理解がまだ生まれ育っていない。

合同の運動会
 87年秋、市から正式に拒否回答が届いた。しかし区長さんも「つくる会」も諦めなかった。会と地区との交流は深まり10月には合同運動会が開かれた。もともと運動会は学校と地区の共催の行事だったのだ。会の子どもが40名ほど参加して和やかな一日になった。種目も多彩で相撲まであった。(なんと私が優勝!)締めくくりは伝統の炭坑節ともちまき。これは今も引き継がれている。

今度もダメ
 88年の春に村の家の建設が計画された。開校後は寮に転用しようと考えたのだ。学校の払い下げに期待が持てたからだ。じっさい市長は「これを進めるには学校を廃校にする手続きが必要。地元から請願を出してほしい。」と提案したのだ。地元はすぐに署名を集め書類を提出した。今度は要望でなく請願である。法的に重みが違う。内々に「五千万ではどうか」という打診まであった。

 しかし横やりが入った。村の家が完成し、最初のサマースクールが終わった8月、市長は態度を豹変させ、請願が市の文教厚生委員会でまだ審議中なのに、社会福祉施設に転用すると発表したのだ。村の人は「趣旨が違う」と怒って請願を取り下げてしまった。市長も「地元のためなのに」と怒ったという。

前市長の北村さん
 市の関係者すべてが反対したのではない。例えば文教厚生委員会の北村委員長(前市長)は民法を研究し、施設の貸与について和歌山県と折衝してくださった。そして県は「半分は借用してよい」というまで折れてくれたのだ。北村さんにはその後もいく度もお世話になっている。心からお礼申し上げたい。
方向転換、しかし彦谷にこだわる

 二度目も拒否されて、さすがのつくる会にも動揺が走った。前回に続いて今度も何人かが会を去って行った。しかし大半の会員は諦めなかった。村の家はできていたし、秋にはキルクハニティのジョン校長夫妻の来日もあって、一種の不思議な楽天主義が漂っていたように思われる。

危険な方向?
 しかし、それにしても今後どうするか。選択肢は四つあった。
 ?市と交渉を続ける。
 ?別の地に候補地を探す(じっさい大阪府内や鳥取県などに候補地があった)。
 ?方向転換をして自前の土地と建物で開校をめざす。
 ?学校づくりを諦める。

 けっきょく私たちは第三の道を選んだ。ほとんどのメンバーが残り、二度目の合同運動会も無事に済ませた。もちろんこれからの道は決して平らではない。何年後に目標に近づくという見通しもはっきりしない。友人や先輩の中には「危険な方向に進み始めたぞ」と警告するものもあった。資金集めを本格化させて、それが失敗した時、社会的にも経済的にも破綻をきたす、と心配してくれたのだろう。

 なにしろ学校づくりを一から始めると、大変な額の資金が必要になる。その頃できた生野学園は8億円とか、自由の森学園は数億円の借金が残ったとか聞いていた。もともと学校建築は基準がきびしい。当時はいわゆるバブル期で土地代は高い。そのうえ開校後の一年分の経常経費を、あらかじめ用意しなくてはいけないのだ。

 しかし、その頃のつくる会は「学校づくりは彦谷で」と決めていた。村の家がすでにあり、区長さんはじめ熱心な地区の人たちとの人間関係も確立されようとしていたからだ。そして実際にこれは何より大事な財産となった。

日本のあちこちで
 彦谷小学校の譲渡交渉は、こうして頓挫した。しかしその過程で学んだことはとても多い。それは、その後の資金計画や書類作りなどで生かされている。またその後の福井での学校づくりでも、おおいに役に立ったのである。

 かつやまの開校は、各地の廃校の活用と、借地・借家による開校への道を開いた。長野のグリーンヒルズ小学校や北九州の平尾台の学校(2006年開校)がその好例だ。

- きのくに子どもの村通信より - 2009年5月発刊 Vol.21

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