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農業ルネッサンス元年

川平 俊男 (かびら としお)

1950年米軍統治下の宮古島で生まれる。家業は農業。自然豊かな前近代的農業、農村で育つ。69年島根大学へ留学。趣味は器械体操といたずらを考えること。70年代から親の家計を助けるため那覇で働く。「オキナワーヤマトユイの会」に参加し援農活動の受け入れ。「琉球弧の住民運動」事務局に参加し奄美琉球各地域島々の地域づくり島興し運動を支援。沖縄農漁村文化協会を結成し農漁業、農漁村の未来像の研究を続ける。宮古島に戻り農業をしながら自然塾を主宰し、農的学習法を編み出し、地域教育に取り組む。一方で農作物の研究および生産を始める。多くの生産者が作っても売れない事情を知り販路拡大の応援。95年ごろ「宮古の農業を考える会」を結成し有機農法の普及拡大と循環型社会づくり運動を始める。有機農法の限界に気付き、無農薬無肥料栽培に進む。10年前から親の介護を続ける。

【Vol.54】宮古伝統食のパワー

投稿日:

 1月下旬午前3時ごろ、私が介護を続けている母の容体が急変し仮死状態となりました。

 私は溢れ出る涙をふく間もなく、大声で「母ちゃーん」と叫びながら母を抱きかかえ、心臓マッサージを続けました。救急車で宮古病院へ運び込んだが医者からは「おそらく持たないだろう。覚悟を決めた方がよい」と言われました。集中治療室に移り、首の大静脈から直接心臓に血圧上昇剤を送り込む治療を続けるも医者の悲観的意見は変わりません。成功する確率は低いが最後の手段として開腹手術を行うことになりました。その準備中に母の容体が急に回復しました。血圧が上がり始め、意識が戻りました。生き返ったのです。手術は取りやめ様子を見ることになりました。

 それから2週後に私の方から申し出て退院しました。実は私の体力が限界に来ていました。昼は畑、夜は病院で母のつきそいの毎日。母のことが心配で食欲はなく、睡眠もほとんど取らない状態でした。母の入院前も過労で台所で倒れ、意識不明になったばかりでした。去年の10月末から続いた天候不順は宮古(島)の農業生産に大打撃を与えています。この状態を何とか打開しようとして体に無理が来たようです。それでも、ほとんど食べない、眠らないで農作業と母の介護が続けられたことには秘密がありました。それはニンニクの黒糖漬け発酵ジュースです。台所で倒れた後、岡田さん(52号で紹介)から自家製の手作りのものを分けてもらい、毎朝50cc飲み続けていました。このニンニクのパワー、黒糖パワーはスゴイ。

 40数年前、宮古伝統農業が健在だった頃は黒糖漬のニンニクを常食していました。どの家庭にもンスゥグーイ(みその保管所・土間)の中に素焼のかめがいくつか並んでいました。その中に自家製の宮古みそ、ニンニクの黒糖漬け、ショウガの黒糖漬けの他ラッキョウ、季節々々の野菜類、木の実、パパイヤ、海草小魚の黒糖漬塩、泡盛(酒)を利用した保存食が常備されていました。冷蔵庫はなく、様々な保存方法が工夫されていました。その中で特にニンニクが多用されていました。子どもから大人まで全員がほぼ毎日食し、子どもたちのおかず・おやつに、年よりの茶がしに、酒のつまみに、ニンニク葉は生でも漬け物でも油いためにも利用されていました。いもが主食の時代であり、いもとニンニクは合っていました。畑へはいもとみそとニンニクと黒糖と茶を持って行き、野菜を摘んでおかずにしていました。食べられる野草が年中ふんだんにあり葉野菜はあまり栽培されていませんでした。豆類、麦、トウモロコシ、雑穀類、大根、ニンジン、玉ねぎ、トマト、キャベツ、いも、ジャガイモ、冬瓜、南瓜、糸瓜などが栽培され、農薬・肥料も使わず、作物の組み合わせが工夫されていましたがサトウキビ一色になり、その伝統的知恵が途切れてしまいました。

 母の奇跡的回復は宮古の伝統的食生活によるものだと思います。医者も言いました。「宮古の伝統食を続けた人の生命力は医学では解明できない。」

 平成24年2月2日宮古(島)に新人が誕生しました。須磨風花(ふうか)ちゃん。母は美佳さん、父は北雄さん。移住組です。「初産で不安はあったが自宅で自然出産に挑戦しました。妊娠中は心身の健康に気を使いました。プレマの方たちとの出合いや宮古(島)で自然栽培をめざす方たちとの交流は私たちにとって安らぎとこの島で子を産み育て生きていく希望と自信を与えてくれました。私たちは以前アフリカ音楽を学ぶためにアフリカに渡り、数年間くらしました。宮古(島)に来た時、雰囲気がアフリカに似ていて好きになり、移住を決めました。宮古(島)再生プロジェクトに参加し、この自然とコミュニティの中で子どもを育てたいと思います。」(美佳さん)「プレマのプロジェクトに参加し自然栽培を続けていきたい。農業と音楽を両立させたい。」(北雄さん)風佳ちゃん、よかったネ!!


川平 俊男

川平 俊男氏
1950年米軍統治下の宮古島で生まれる。家業は農業。自然豊かな前近代的農業、農村で育つ。69年島根大学へ留学。趣味は器械体操といたずらを考えること。70年代から親の家計を助けるため那覇で働く。「オキナワーヤマトユイの会」に参加し援農活動の受け入れ。「琉球弧の住民運動」事務局に参加し奄美琉球各地域島々の地域づくり島興し運動を支援。沖縄農漁村文化協会を結成し農漁業、農漁村の未来像の研究を続ける。宮古島に戻り農業をしながら自然塾を主宰し、農的学習法を編み出し、地域教育に取り組む。一方で農作物の研究および生産を始める。多くの生産者が作っても売れない事情を知り販路拡大の応援。95年ごろ「宮古の農業を考える会」を結成し有機農法の普及拡大と循環型社会づくり運動を始める。有機農法の限界に気付き、無農薬無肥料栽培に進む。10年前から親の介護を続ける。

プレマ株式会社の『宮古島プロジェクト
宮古島の自然農法を推進し、島の健全な地下水と珊瑚礁を守り、お客様に安心と安全を届けます。

- 農業ルネッサンス元年 - 2012年3月発刊 Vol.54

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