累計122万件出荷!自然食品・自然療法・エコロジー・らくなちゅらる提案サイト

農業ルネッサンス元年

川平 俊男 (かびら としお)

1950年米軍統治下の宮古島で生まれる。家業は農業。自然豊かな前近代的農業、農村で育つ。69年島根大学へ留学。趣味は器械体操といたずらを考えること。70年代から親の家計を助けるため那覇で働く。「オキナワーヤマトユイの会」に参加し援農活動の受け入れ。「琉球弧の住民運動」事務局に参加し奄美琉球各地域島々の地域づくり島興し運動を支援。沖縄農漁村文化協会を結成し農漁業、農漁村の未来像の研究を続ける。宮古島に戻り農業をしながら自然塾を主宰し、農的学習法を編み出し、地域教育に取り組む。一方で農作物の研究および生産を始める。多くの生産者が作っても売れない事情を知り販路拡大の応援。95年ごろ「宮古の農業を考える会」を結成し有機農法の普及拡大と循環型社会づくり運動を始める。有機農法の限界に気付き、無農薬無肥料栽培に進む。10年前から親の介護を続ける。

【Vol.63】さとうきびの花(一)歴史

投稿日:

 ざわわ ざわわ ざわわ
 広いさとうきび畑は
 ざわわ ざわわ ざわわ
 風が通りぬけるだけ(以下省略)

 この「さとうきび畑」はちあきなおみが歌い出し、森山良子により、広く世に知れわたった。森山は宮古島でもさとうきびコンサートをひらいた。沖縄出身の盲目歌手、新垣勉も歌い、最近は沖縄県内のラジオ放送では新垣の歌が流れるようになった。

 さとうきびはこの時期は夏植え(去年の夏から秋に苗を植え付けしたきび)は成熟期に入っている。春植え(今年の3月から4月に植え付け)と株出し(苗の植え付けではなく、収穫後の切り株から新芽を出し、成長したきび)はまだ未熟であり、来年の2月から4月ごろ成熟する。成熟時期は品種により2~3ヶ月の差がある。収穫時期は宮古島では1月中旬に始まり、3月下旬に終わる。伊良部島と多良間島は12月に始まり、4 月に終わる。伊良部島と多良間島の収穫期間が長いのは製糖工場の処理能力が小さいためである。宮古島と伊良部島は分蜜糖(白砂糖の原料となる糖分と糖蜜を分ける製糖方法)生産であり、多良間島は黒糖生産である。手づくり黒糖の加工所は宮古島内に8ヶ所ある。そこでは早熟系品種のさとうきびを利用して、10月から生産を始める所もある。

 さとうきびは熱帯性作物であり、その栽培の歴史は古い。紀元前1000年ごろのバラモンの教典「リグ・ベーダ」に伝わったと考えられる。正確な原産地は不明だが、南太平洋地域からニューギニア近辺だろうと言われている。「インドには蜂の力を借りずに葦からとれる蜜がある」と紀元前334 年、アレクサンダー大王のインド遠征に加わったネアチアスが語ったと言われている。兵士たちはさとうきびをかじって遠征の疲れをいやしたとのことである。さとうきび栽培地域はどんどん拡がり、中国には紀元前4~6世紀ごろ伝わり、日本や琉球には中国から伝わった。日本には8世紀中頃、唐僧鑑真渡来の頃、砂糖が入ったとされている。琉球への伝来は不明だが、「季朝実録」によれば1429年頃にはさとうきびが栽培されていたとある。近世に製造技術が改良され、優良品種の導入もあり、奄美琉球だけでなく、日本各地で栽培されるようになった。黒糖は奄美琉球のみの特産品ではなくなり、さとうきび栽培は地域・面積・重量を規制された。人頭税下の宮古八重山では栽培されていなかった。明治21年に生産規制は解除された。明治17年、宮古農事試験場に城間正安が製糖技師として派遣されてきた。城間はさとうきび生産普及のため、宮古島の各地を奔走したが、普及は難しかった。人頭税下の農民達にはそれどころではなかった。城間の努力で砂糖による上納粟の代納と製糖器具の無償貸与が実現し、その後、生産は拡大した。城間は官職を辞し、農民と共に栽培を続けた。新潟から真珠養殖のために来島した中村十作と共に人頭税廃止運動にたち上がった。明治35年12月、宮古八重山の農民を265年間ドレイ状態に置いてきた天下の悪法である人頭税は廃止された。世界史的にはコーヒー、カカオ豆、綿花などと共に、さとうきび栽培はアジア、アフリカ、中米の人々にドレイ労働を強制してきた。「甘い砂糖」の「苦い歴史」は現代まで、爪跡を残している。しかし、宮古八重山ではさとうきび栽培が農民たちをドレイ状態から解放するキッカケとなった。日清戦争後、大日本帝国は台湾を併合した。台湾に製糖工場をつくり、さとうきびの生産地は台湾に移っていった。第二次世界大戦時、宮古島も空と海からの猛爆撃にさらされ、焦土と化した。製糖設備は破壊され、苗の入手も困難だった。何よりも極度の食料不足だった。いも、麦、豆類などの栽培が優先された。1950年代に黒糖生産が復活した。キビ汁のしぼり方は鉄車を馬が引く原始的圧搾機利用が50年代後半まで続き、動力利用に代わり、60年代には大型工場が本格的に動き出した。国際的砂糖相場の高騰もあり、栽培面積は急速に拡大し、現代に至っている。


川平 俊男

川平 俊男氏
1950年米軍統治下の宮古島で生まれる。家業は農業。自然豊かな前近代的農業、農村で育つ。69年島根大学へ留学。趣味は器械体操といたずらを考えること。70年代から親の家計を助けるため那覇で働く。「オキナワーヤマトユイの会」に参加し援農活動の受け入れ。「琉球弧の住民運動」事務局に参加し奄美琉球各地域島々の地域づくり島興し運動を支援。沖縄農漁村文化協会を結成し農漁業、農漁村の未来像の研究を続ける。宮古島に戻り農業をしながら自然塾を主宰し、農的学習法を編み出し、地域教育に取り組む。一方で農作物の研究および生産を始める。多くの生産者が作っても売れない事情を知り販路拡大の応援。95年ごろ「宮古の農業を考える会」を結成し有機農法の普及拡大と循環型社会づくり運動を始める。有機農法の限界に気付き、無農薬無肥料栽培に進む。10年前から親の介護を続ける。

プレマ株式会社の『宮古島プロジェクト
宮古島の自然農法を推進し、島の健全な地下水と珊瑚礁を守り、お客様に安心と安全を届けます。

- 農業ルネッサンス元年 - 2012年12月発刊 Vol.63

今月の記事

びんちょうたんコム

累計122万件出荷!自然食品、健康食品、スキンケア、エコロジー雑貨、健康雑貨などのほんもの商品を取りそろえております。

びんちょうたんコム 通販サイトへ