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農業ルネッサンス元年

川平 俊男 (かびら としお)

1950年米軍統治下の宮古島で生まれる。家業は農業。自然豊かな前近代的農業、農村で育つ。69年島根大学へ留学。趣味は器械体操といたずらを考えること。70年代から親の家計を助けるため那覇で働く。「オキナワーヤマトユイの会」に参加し援農活動の受け入れ。「琉球弧の住民運動」事務局に参加し奄美琉球各地域島々の地域づくり島興し運動を支援。沖縄農漁村文化協会を結成し農漁業、農漁村の未来像の研究を続ける。宮古島に戻り農業をしながら自然塾を主宰し、農的学習法を編み出し、地域教育に取り組む。一方で農作物の研究および生産を始める。多くの生産者が作っても売れない事情を知り販路拡大の応援。95年ごろ「宮古の農業を考える会」を結成し有機農法の普及拡大と循環型社会づくり運動を始める。有機農法の限界に気付き、無農薬無肥料栽培に進む。10年前から親の介護を続ける。

【Vol.70】宮古島におけるジャガイモ起源

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 「ライスカレーを初めて食べたのはいつごろかおぼえていますか?食べたのは宮古(島)ですか ? オキナワですか?ヤマトですか?」この質問に対する答は世代によって違う。

①1972年オキナワの日本復帰前後生まれで、子ども時代の食事内容が学校給食も含めてすっかり日本化した中で育った30代後半から40代前半の人たち。
②復帰前ではあるが日本化の影響が色濃く出てきた時代に育った40代後半から50代前半の人たち。
③復帰前後に進学や就職で日本へ渡った50代後半から60代前半の人たち。子どもの頃はいもが主食だった。1960年頃、学校給食が始まり、その内容はアメリカ軍配給の脱脂粉乳のミルクとメリケン粉でつくった蒸しパンのみでおかずなしだった。下痢をする子が多かった。給食が始まる前はいもとみそを家から持参した。
④戦中及び戦後初期の社会的な大混乱期に育った60代後半から70代前半の人たち。人口六万人前後のこの小さな宮古島に戦時中は三万人の日本兵がいた。アメリカ軍は最初、宮古島を占領する計画で海と空から「鉄の暴風」がふき荒れた。補給路を断たれた日本兵には餓死者が続出し、悲惨な状況だった。日本兵たちは住民の乏しい食料を奪い、盗んだ。栄養失調の体をマラリアが襲った。多くの子どもたちが死んだ。八重山諸島も同様だった。
⑤日中戦争が泥沼化し日本社会全体が戦争に引きずられていくがまだ宮古島には直接は戦火の波が押しよせてこなくて、のどかな農村風景の中で育った70年代後半以上の人たち。

 ①~⑤のそれぞれの世代の人たちの答はそれぞれの育った時代性を表していておもしろい。

①現在と同じである。学校給食、外食、家庭食問わず、季節感もなく、いつでも食べてきた。ライスカレーの食材である米、ジャガイモ、にんじん、玉ねぎ、豚肉やとり肉、カレー粉がいつ、どこで、どのように生産又は加工され、どのような経路で自分たちの口に入ってきたのかは考えない。カネを出せば必要な食べ物は手に入って当たり前だと思っている。この世代は自分の子どもたちにも食べ物について教えない。現在の学校給食の中でも取り上げられていない。私が去年ある学校で子どもたちと先生たちを相手に「自然な食べ物とは ?」についての講話をした。7月中旬だった。給食に出たライスカレーを題材にした。米、ジャガイモ、にんじん、玉ねぎ、豚肉、カレー粉が今、宮古島でつくられているのかと問うた。子どもたちだけでなく、先生たちもだれ一人として答えられなかった。農薬、化学肥料、除草剤、鮮度保持剤に関しては全くの無知だった。スーパーで1円でも安く買えれば得した気分になる人が大多数だ。

②子どもの頃に食べていたように思うがいくつの時なのか思い出せない。当時、ジャガイモが宮古で生産されていたのかはわからない。子どもの頃はライスカレーが大好きで食べる時はうれしかった。

③宮古にいた子どもの頃は食べなかったと思う。沖縄や日本へ出た後だと思う。ジャガイモは畑で見たことはない。集団就職の後半の世代である。日本の高度成長にかげりが見え始め、経済優先、科学万能主義のゆがみが社会にも人の体にも出てきた。公害問題、環境破壊、食の安全、豊かさとは何か?科学技術の進歩は果たして人間を幸福にするか ? 等々。

④戦後アメリカ文化の影響を最も強く受けた世代であり、食文化も同様だ。「金の卵」とおだれられ、自らも「夢の都」東京にあこがれ、日本全国から都会へ集団移動し、そこで田舎では味わえなかった「文化生活」を始めた。食生活は大きく変化し、その中でジャガイモの需要は飛躍的に増大した。しかし、その変化は都会の「文化生活」での変化だった。農村漁村や離島と都会との較差は拡がるばかりだった。宮古(島)は離島の離島であり、その上、アメリカ軍政下でありながら、経済的には孤立していた。そのため、
最もジャガイモと遠い世代となった。

⑤「五大陸はわが故郷」の気概で明治時代から戦前まで先人たちは世界をめざした。多くが南米へ向かった。ジャガイモの味を知ったと思われるし、宮古(島)へも伝えられたと思われるが定着していない。

 ジャガイモ栽培に関する取材及び研究を続けていく中でおもしろい話題がたくさんあり、今回はその一部を紹介しました。

川平 俊男

川平 俊男氏
1950年米軍統治下の宮古島で生まれる。家業は農業。自然豊かな前近代的農業、農村で育つ。69年島根大学へ留学。趣味は器械体操といたずらを考えること。70年代から親の家計を助けるため那覇で働く。「オキナワーヤマトユイの会」に参加し援農活動の受け入れ。「琉球弧の住民運動」事務局に参加し奄美琉球各地域島々の地域づくり島興し運動を支援。沖縄農漁村文化協会を結成し農漁業、農漁村の未来像の研究を続ける。宮古島に戻り農業をしながら自然塾を主宰し、農的学習法を編み出し、地域教育に取り組む。一方で農作物の研究および生産を始める。多くの生産者が作っても売れない事情を知り販路拡大の応援。95年ごろ「宮古の農業を考える会」を結成し有機農法の普及拡大と循環型社会づくり運動を始める。有機農法の限界に気付き、無農薬無肥料栽培に進む。10年前から親の介護を続ける。

プレマ株式会社の『宮古島プロジェクト
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- 農業ルネッサンス元年 - 2013年7月発刊 Vol.70

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