小さな頃から、鍵と携帯電話を身に付け、学校に通う子供は決して珍しくありません。核家族になり、共働きが増え。時代が、時間が早送りになった今、粉を混ぜ合わせてクッキーを焼いたり、パウンドケーキを作ったりする家庭は少なくなりました。小さな子供にスナック菓子の袋を与えるのは良心が咎めるけれど、かといって自分で作る時間はない。少しでも罪悪感なく、食べさせられるお菓子はないだろうか。多くの母親が発する声にならない声に応えるように、どこの台所でも揃えられるような材料を使い、手作りで焼き菓子を作り続ける製造所があります。
粉をこねたり、伸ばしたりは、機械の力を借りますが、伸ばされたクッキードウ(クッキーの生地)を形成するのは、すべて手作業。ウサギやクマ、乗り物などのステンレス製の抜き型で、ひとつずつ丁寧に抜き取っていきます。小さくても50cm四方はありそうなクッキードウを、2~3cmの大きさの抜き型で、リズミカルに型抜きする仕事は、それだけでも十分面倒です。ましてや、細い耳や小さな足のついた抜き型で、型崩れしないように何百と抜き取り続けるのは至難の技です。四角く切って焼けば簡単なのに、何故、敢えて型を抜くのか。そんな問いに対して、森さんはさも当然と、あっさりと云われました。
形が可愛いと、子どもが喜ぶじゃないですか。喜んでくれたら、嬉しいじゃないですか。
ウサギや乗り物、クマの形に抜いたクッキーを焼き続けるのは、本当にシンプルな理由です。けれども、製造現場はそんなにシンプルではありません。
「雑穀の生地には粘りがないから、凹凸があるだけで欠けたり、切れたりするんです。」
小麦粉のアレルギーを持つ方が増えた昨今、小麦粉を使わない雑穀や米粉のクッキーへのニーズが増えています。米や雑穀はグルテンを含まない分、生地が脆く扱いが困難です。2本の耳がぴょんと飛び出た型を手に、
「この耳の部分は、馴れないと上手く抜き取れないです。慣れるまでにもすごく時間がかかって、今、出来る人は2~3人です」 と製造責任者が云います。
面倒ですよね、やめたくならないですか?せめて、もっと簡単な形の型にするとか…
思わず口を飛び出た問いに、「やろうって、いわれましたから」とたった一言。
自信を持って届けられる品質は、食品製造に携わっていれば当たり前。五感の全てで世界と向き合う小さな子どもたちにとっては、味よりも前に形や手触りといった視覚や触覚でも自分の欲しいものを選びます。可愛らしい包装材であったり、乗り物や動物の型であったり。実際に製造に携わる方々の言葉の隅々から、小さなお客様が自然と手を伸ばし、喜んで口に運ぶ商品を作り続けようとする会社の意思を感じずにはいられませんでした。
「米粉や雑穀の粉は、確かに脆くて扱いづらいですけれど、力はいらないのでまだ楽です。
本当にしんどいのは小麦粉の生地ですね。型は崩れにくいけれど、弾力があるから力がいります。初めてだったら、手に力が入らなくなったりしますし、腕が動かなくなるかもしれませんよ。」
1日研修、やってますよ。
お誘いにのって製造現場に「実習」参加していたその日、午後の派遣先は小麦製品の製造現場でした。製造ラインで楕円形のクッキー型を手にわずか2時間ほど、べじびすけっとの型を抜き続けた結末は惨憺たるもので、利き手の握力は入らず、手首は痛く、手首から肘にかけては筋肉が張り…。ひとあし遅れて入ったラインで、スタッフの皆さんがリズミカルに、そして軽々と型を抜き続ける様子に、『なんだ、これなら出来そう』と侮ったのがまちがいのもとでした。まず、10個ぐらい抜き取った時点で既に手が痛い。クッキー型が手のひらにめり込んで、くっきりと赤く楕円が刻まれます。てのひらが痛いからと力を加減すると、今度は形が歪になり、抜き取ることもできません。これ以上抜き型が食い込まないようステンレスの板をかませて力を込めると、今度は手首がだるく痛くなってくる。次に二の腕、そして肩…。抜き型を押し当て、綺麗な楕円に抜き取る繰り返しが、どれ程の力と神経を使う作業なのかは、実際にやってみるまでは解りませんでした。軽々と、そして淡々と美しい商品を作りだしていくスタッフの方々。「無理しないようにね。馴れるまでは大変だから」と一言。業務用の製菓道具屋には、ローラーでコロコロと転がすだけで、均一に同じ型のクッキーが幾つも抜き取れる道具もあります。しかし便利な道具を使ったのでは、細部まで手で作業しなければ生まれない「温かさ」を失います。目指すは、本当の手作り。一個ずつ手作業で抜き取った不揃いな形には、何処か親近感と愛着を感じずにいられない温もりが残っています。
原料は、小麦粉と油、粗糖、野菜、塩。香料も着色料も使わない、ベーキングパウダーすら使わない、まるでお家のキッチンで焼き上げたような素朴な味わい。パウダー化された野菜ではなく、提携農家から皮つきのまま丸ごと買い取り、加熱調理した野菜を使った焼き菓子は、懐かしく素朴に身体に染み渡ります。生の野菜は、糖度や水分の含有量がその都度変化するために、作り手にとっては水加減や甘みの調整が実に面倒ですが、出来上がった焼き菓子は、子供の頃、母が特別な日のおやつにと焼いてくれたような、小麦と野菜の風味が生きた味に仕上がります。決して凡庸ではない品を、身近な存在にしてしまうのは、手作業で抜き取られた素朴な型です。
今の食のあり方について。
日本におけるオーガニックの考え方について。
流通や製造の責任について。
森さんと話していると、話題は尽きません。彼の言葉はすべて、仕事に対する姿勢の背骨であり、血であり、肉なのでしょう。底辺には、命を造る食を提供するものとして、それがたとえお菓子であろうと、流れ作業で出来上がる空虚なモノづくりにはしないという、創業以来引き継がれた強い意志が感じられます。
購入する原料の加工度をできる限り低く保てば生産者が明確になり、自社で製粉などの加工をすれば新鮮な原料を使えるだけでなく、加工の工程も明らかになります。工場内は、小麦粉を使用しているセクションと不使用のセクションが、明確に区分けされ、色分けされています。アレルギー対応とは公言していませんが、小麦粉のアレルギーなど、アレルゲンに敏感なお子さんにもたべてもらえるようにと、工場内は使用する器具も所属するエリアが決まっています。小麦不使用のエリアには、小麦粉の粒子ひと粒さえ持ち込まないために、全てが徹底して管理されています。もちろん、そこで働く人たちも例外はありません。例えば、午前中に小麦使用の製造のラインに入ったら、その日は一日中、小麦製品のエリアにしか立ち入らないという具合です。小麦使用の作業エリアは、ブルー。不使用のエリアは、白。それぞれ着用した作業服の色で、周囲の目にも所属エリアが明示されています。また白のエリアで使用される米や雑穀は、原体のまま持ち込まれ、白のエリアに置かれた専用機材で粉に挽かれます.
創業以来、アレルゲンに関する事故は起こっていません。品質に関してのクレームも、頂いたことはないです。
聞き逃してしまいそうなくらいあっさりとした一言。いのちの糧となる食品の製造会社にとって、品質の管理から保証は当然の責任で、クレームは無くて当然と考える方は少なくはないでしょう。しかし現実は、遥かに厳しいものです。お客様からの厳しいご意見は、あって当然。百人顔が違うのと同じように、百人それぞれの価値観があり、意見があるのです。そんな現実と真正面から向き合った末に、森さんは、製造者と販売者が共にアレルゲンや品質管理について学び意見を交換する場を設けるようになりました。定期的に開催される勉強会は、品質管理からアレルゲン対策に至るまで、製造者にとって必須と考えられる分野を網羅しています。彼らは定期的に勉強会を開催し学びを深めると同時に、製造現場に落とし込み実践するという循環を重ね、それを地層のように積み重ねています。
ウサギやくま、のりものにハート。クリスマスにはツリーのカタチ、ハロウィンにはオバケやカボチャ、端午の節句やひな祭りには鯉のぼりやお雛様。見た目に吸い寄せられる小さなお客様の喜ぶ顔が見たいのだと、今日もまた森さんとスタッフたちが知恵を絞っています。