今朝焼きあがったばかりという粗熱の取れた食パンを、ラックから一斤抜き取り、両手で挟んで左右からぐっと圧力をかけました。
((ああっ、もったいない!))
袋売りの食パンであれば、ひしゃげて元には戻らないであろうという強い力です。商品を手で押しつぶしてしまうなんて、申し訳ないことをさせてしまったと内心ハラハラとして、相手を見ました。
「ほらね、こうやって押しても、元に戻ってくるんです。」
変形するのではと思った食パンは、圧を緩めると同時に、他のパンとも寸分違わない形状に力強く復元されました。
湿気を含んで少ししっとりとしたパン耳も、ひび割れることもなくそのまま何事も起きなかったかのようです。
「この弾力は、イーストでは望めません。
塩と小麦粉を練り合わせて、天然酵母でじっくりと時間をかけて発酵させて、初めて出来上がる弾力だと思います。」
「これ、生きていますね。」
まだ復元を続けるパンを見ながら、言葉が滑り落ちました。
完全に元の形に戻ろうと、まるで意志を持つ生き物のようにゆっくりと膨らみ続けるその様は、本当に生命を持っているかのようでした。
「食べてみてください。」
差し出された欠片から、ふわっと香る香ばしい香り。
口に含むと、非常に淡白な、それでいて香ばしさの中に、小麦の甘さがしっかりと感じられます。
なにより、弾力があるのに、キメの細かい柔らかな食感とどこかしっとりと優しい舌触りに驚きました。
パンなのにお味噌汁にぴったりな、まるで炊きたてのご飯をいただいたような満足感です。
表情の変化を見取ったのでしょう、次の言葉は確信に満ちていました。
「どうですか、美味しいでしょう。」
高さ170cmを越えるラックに整然と、かつぎっちりと並んだ数百本の食パンを前に、唯々うなずくばかりでした。
パン粉のために、考えられたレシピ。
日本人にあったパンをと、追求された自家製の酵母。
このまま店に並んでもおかしくはない食パン達は、しかしパン粉になるためだけに焼き上げられたものでした。
素材の味を邪魔しないよう、塩分は控えめ。カラッと切れよく仕上がるよう、油切れが良いように調整された水分。
「料理に使うものなので、自己主張をする必要はありません。
ですが、パンそのものが美味しくなければ、パン粉も決して美味しくは仕上がりません。」
工場の稼働時間は、25時(1時)の焼成開始からお昼の12時頃まで。
朝の9時には、当日に焼きあがったばかりのパンが店頭に向かって出発します。
出荷が済むと翌日の仕込み。酵母の様子を確認し、粉を捏ね、発酵させます。
工場内には、一度に百本近いパンを焼き上げる巨大なオーブンやホイロ、ニーダー、ローラー、
分割器の他、アンパンなどの餡をくるむ機材など、敷地面積比で考えると豊か過ぎるくらいの製造設備を備えています。
「こういった道具を使うようになって、パンづくりの経験が浅い方にも、
ある程度深い部分までお手伝い頂けるようになりました。
そのお陰で、ご贔屓下さる沢山のお客様に、私どものパンをお届けできるようになりましたし、
こうやってパン粉のためにだけパンを焼けるようにもなりました。」
とはいうものの、工房の要は、少数精鋭、熟練のパン職人です。
米を主食にする日本人にあったパンを焼こうと、長い間使っていた既製の天然酵母粉末の使用をやめ、
酵母作りからの再出発を決意した約三十年前。酒や味噌、醤油などの根強い発酵文化を持つ国だから、
西洋の「小麦」文化で生まれたパンという発酵文化にも馴染む酵母を作り出すだけの環境が整っていたのかもしれません。
しかし、今まで誰もやろうとはしなかった米麹を使った酵母づくり。
それは、「米」と「小麦」という二つの食文化圏を違和感なく繋ぎ合わせただけでなく、
強く印象に残る食感と旨みに満ちた新しいパンの世界を生み出しました。
麹蔵で種付けから始まる麹づくりは、日本に昔から残る先人の叡智です。
そして何日もかけ、我が子を育てるように手をかけて産み出す酵母種は、
千年近い和(やまと)の食文化を支えてきた根幹を引き継いでいます。
自社の麹室で作られる自然酵母は、蒸した米に蔵つき麹を定着させて起こすところから始まります。
この米麹が安定するまでの一番難しいとされる約二十日間、会長と社長が元種づくりにつきっきりになります。
麹造りの技術も、元種づくりも一子相伝。
櫂と呼ばれる木の混ぜ棒を使い、麹の仕込桶をひとつひとつ丁寧にかき混ぜる作業は、
命の種をつくる仕事。米という天産物に、新しい役目を与える神聖な仕事です。
「最初は海外産の小麦を使っていましたが、どうしてもうちの酵母に合わないので、すべて国産の小麦に切り替えました。」
高く積まれた小麦の袋には、自社の名前が製品名として印字されています。
国産小麦の産地の一つである北海道の製粉会社に依頼をし、自社用に特別に製粉、ブレンドされる二種の粉。
それぞれ用途が決まっているのだと言われたひとつは、パン粉用にブレンドされたものでした。
米麹由来の酵母に合う国産小麦。その味に、合う原料をと厳選していくと、
自然と削除されたショートニングやバター。
簡素な材料を使い、時間と手間をしっかりかけること。
原料のパンづくりの根幹から考え直した末には、それぞれの素材の力を最大限に引き出した味わいがつくり出されています。