「生存への行進」を途中で抜けて、急遽、就職先(オーサワジャパン)を決め、新居(東京都町田市)も決め、双方の実家(愛知県と福岡県)に挨拶に行き、神戸で親兄弟だけの顔見せ会を開き、入籍したのが24歳になったばかりの昭和54年10月。
翌年2月の出産予定日に向けて新生活が始まりました。
30歳ぐらいまで定職につかずにブラブラと生活する予定で、将来のことなんて全く考えていなかったのですが、親になる以上そうも言っていられないので、ない頭でいろいろ考え、将来は故郷の豊橋に帰って、自然食品店と自然食レストラン、鍼灸治療院を併設したお店を開く夢を持ちました。
オーサワジャパンの面接時にも、「3年ぐらいオーサワで働いて商品の勉強をしながら夜間の鍼灸学校にも通い、独立したい」とぬけぬけと話していたのでした。
定年まで勤め上げるのが当たり前の時代、今考えれば、3年しか働く予定がない奴を誰が採用なんかするものかと考えてしまいますが、そこはマクロビオティックのオーサワ(笑)。
入社時の先輩方は10年も経たないうちに全員辞められて、生産者になったり小売店やレストランを開いたりして独立されました。
生産者では、
「黒炒り玄米茶」の「命の糧ほんものや」の島村さん、
「特選三年番茶(薪火寒茶)」の「大口食養村」の川上さん、
後輩ですが、「発芽玄米」の「加藤農園」の加藤さん等が、
今でも現役で活躍されています。
皆さん、誰にも真似できないような超こだわり食品を作り続けていますが、商売というよりも、好きなことを追求する道楽者のような方ばかりです。
ほかにも、
長野県で自然食品店を始められた松田さん、
アメリカでマクロビオティックレストランを始められた木幡さん、
今はどうされているでしょうか・・・。
というような社風と先輩方に恵まれ、3年勤務の条件でオーサワジャパンに入社させていただきましたが、入社1年後から商品開発の仕事を担当するようになり、面白くて辞められなくなったのでした。
普通の会社であれば、この商品を開発したら、いくら売れて、いくら利益が出るか、ということを最優先しますが、当時のオーサワは、日本で一番いいものを開発すれば、売値が高かろうが、売れなかろうが、評価されるのです。
超マニアックな生産者と、自然食品店と、お客様に支えていただいた良き時代です。