昭和30年生まれなので、かろうじてテレビ、冷蔵庫、洗濯機のない時代を知っています。
豊橋の実家では三つとも昭和35年前後に購入しました。
それまでは、居間兼食堂にはラジオがデーンと鎮座してニュースや歌が流れていました。
冷蔵庫を買う前は、氷を入れて冷やすクーラーボックスのようなものに魚や肉を一時的に入れていたと記憶しています。
八百屋、魚屋、肉屋が近所にあり、その日に使うものはその日に買っていましたので、冷蔵庫がなくても不便ではありませんでした。
野菜は地元の旬のもの、魚も近海もの、肉の出どころは覚えていませんが、まさしく身土不二の生活でした。
洗濯は、近所の川に共同の洗濯場がありましたが、母親は風呂場で手洗いしていました。
最初に買った洗濯機は洗いだけの一層式で、脱水機はなく、洗濯物をローラーに挟み込んでハンドルをグルグル回して絞っていました。
ついでに言えば、風呂は薪だったし、水道はありましたが井戸もありました。
豊橋は戦災で焼けたせいか下水道の整備が早く、生まれた年の昭和30年に建てた家はすでに水洗式のトイレでした。
昭和49年に大学で上京して住んだ世田谷の下宿の共同トイレは汲み取り式で、東京はなんて遅れているんだとビックリしたものです。
テレビが届いた日の映像記憶は今も鮮明に覚えていて、それはそれは衝撃的な出来事でした。
当時流行っていた「名犬リンチンチン」や「名犬ラッシー」、「ローンレンジャー」といったアメリカTV映画、「月光仮面」や「七色仮面」、「快傑ハリマオ」といった日本番組をよく見ていました。
以来、高校卒業までテレビは見ましたが、一家に一台の時代でしたので、兄弟でケンカにならないように、チャンネル権は家族5人で順番制にして、それを日めくりカレンダーに書いていました。
娯楽のない時代でしたので、小学校低学年ぐらいまではテレビが唯一の楽しみでしたが、たぶん中学2年でギターを始めてからはテレビをあまり見なくなりました。
大学で上京しても、アパートで暇さえあればギターを弾いていましたので、テレビは必要ありませんでした。
学生の頃、地方出身の下宿生でも、ほとんどテレビを持っていましたので、ちょっと異端だったかもしれません。
昭和54年に結婚して55年に長男が生まれ、56年に次男が生まれましたが、女房も子育てに追われていたので、テレビのない生活が続きました。
時間があれば本を読んだり新聞を読んだりできるので、テレビには興味がなかったのですが、確か幼児教育の番組を見せたいとのことで、長女が生まれる前の58年に14インチぐらいのブラウン管テレビを買いました。
10年ぶりのテレビのある生活は、マクロビオティックにどっぷり浸かっていた頃なので、あまり見なかったと記憶しています。
数年後に「ファミリーコンピューター(ファミコン)」を購入してからは、テレビというよりもファミコン画面と化してしまいました。
今でも見るのは、ニュースと「笑点」、吉本系のお笑い番組ぐらいで、いつでもテレビのない生活に戻すことができます。