1979年にオーサワジャパンに入社した時、しばらくの間、どなたが社長なのか知りませんでした。
面接はナンバー2の方にしていただいたので、社長にはお会いしていません。
入社後、社長は桜沢里真先生の妹さんで田中波留子さんといい、桜沢如一先生からいただいたPUネームはフローラさんということを先輩から伺いましたが、なかなかお目にかかることができませんでした。
花井の勤務先は小田急線の東北沢駅から徒歩2分の4階建てのビルで、1階がオーサワジャパンの本社事務所兼売店兼倉庫、2階から4階は日本CI協会でした。
ふだんフローラさんはそこにはおらず、新宿区西落合の作業所兼住居で2、3名の従業員と一緒に食品の小分け包装をされていました。
その頃、オーサワジャパンはまだ規模が小さく、また生産者も個人や小企業がほとんどだったため、例えば胡麻油であれば一斗缶で、小麦粉であれば25㎏の大袋で仕入れて、西落合で手作業で小分けしていたのです。
それを統括していたのがフローラさん。
入社後しばらくしてから、歓迎会を西落合のフローラさん宅でやっていただけることになり、初めてお目にかかることができたと記憶しています。
1908年(明治41年)生まれなので当時71歳。
ちなみに、里真先生は1899年(明治32年)生まれで当時80歳。
里真先生には学生時代に2年間、リマクッキングスクールで教わっていたのですが、とてもお美しく、70代後半には見えませんでした。
なお、弟さんはハブの研究の第一人者で、昭和天皇にも蛇の話をされたことがあり、紫綬褒章、勲三等旭日中綬章を受章された日本蛇属学術研究所初代理事長の澤井芳男東京大学名誉教授です。
1983年、オーサワジャパンが東北沢に売店だけ残して板橋区小茂根に本社と倉庫を移転すると同時に、フローラさんは西落合から小茂根の会社の近くに引っ越され、毎日お会いできるようになりました。
食品の小分け包装のほか、従業員の給食を作っていただきました。
その後、1993年にオーサワジャパンが小茂根から埼玉県富士見市に移転した際、フローラさんは85歳でしたが、定期券を買って有楽町線の小竹向原駅から東武東上線の鶴瀬駅まで約1時間かけて毎日通勤されていました。
広い新築の倉庫の中に、事務所と小分け包装室と台所兼食堂を作り、そこでも給食の指導をしながら、小分け作業の統括をされていました。
1997年に転んで左足大腿骨頸部を骨折して入院されるまでは、毎日出社されていました。
1998年に90歳でお亡くなりになられましたが、翌1999年に100歳でお亡くなりになられた里真先生と共通する長生きの秘訣を考えると、ふだんは粗食の少食ですが、晴れの席では何でも召し上がることです。
フローラさんがお元気な時、オーサワジャパンの株主総会は里真先生のお住まいがある西武新宿線の中井駅近くの割烹料理店で開いていましたが、そのお店は桜沢如一先生と里真先生がよく使われていたお店で、フローラさんと里真先生は、魚でも果物でも、出された料理を残さず召し上がられていました。
あれはダメとかこれはイイとか一切おっしゃらず、それはそれは美味しそうにご馳走を楽しまれていました。
フローラさんの教えで一番印象に残っていることは、「料理が終わったら台所が片付いていないとダメよ」ということ。