マクロビオティックとはあまり関係ありませんが、学生時代、日本CI協会、ほびっと村と並んで頻繁に出入りしていたのがヤマギシ会でした。
一説によると、創始者の山岸巳代蔵氏とマクロビオティック提唱者の桜沢如一氏が会っていたとの話もありますが真偽のほどはわかりません。
ただ、真理を求める姿は同じように見えましたし、盲信するな(ノンクレド)、とらわれてはいけない、ということも共通していました。
とは言っても、ヤマギシズムもマクロビオティックも、一度はとらわれて周りが見えないトンネルに入り込んでしまうものです。
そのトンネルからいかに早く抜け出すかという点において、両方をほぼ同時期に知ったことはよかったのかもしれません。
大学2年だった1975年9月に栃木県の日光で一週間のヤマギシズム特別講習研鑽会(略して特講)を受け、翌年3月には三重県春日山で二週間の研鑽学校を受けて、「本当はどうか?」と考える習慣が身に付きました。
これで山岸会に参画する(=生活する)資格が与えられたのですが、当時、そこまで踏み込むことはできませんでした。
幸福学園運動を唱えた元早稲田大学教授の新島淳良氏が作られた三重県の幸福学園に行ったり、夏休みに二週間子供を預かる「夏の子ども楽園村」のスタッフになったり、東京の高田馬場にあった事務所に出入りしたりしていました。
元々「山岸式養鶏会」から始まっていて、食事には鶏卵や鶏肉がたくさん出てくるので、食事についても「本当はどうか?」と研鑽すべきではないかと提案したこともありましたが、逆にマクロビオティックや玄米食にとらわれてはいけないと諭されました。
新島淳良氏が山岸会を脱会して展開された「緑のふるさと運動」をお手伝いした時期もありましたが、東大生や早大生等、出来のいい学生ばかりが集まっていて、宗教学者の島田裕巳氏も現役東大生で参加していました。
大学3年の文化祭には、所属していた音楽サークルの活動そっちのけで、一人でヤマギシの卵を売ったこともありました。
わざわざ町田市にあった多摩供給所まで電車で卵を取りに行った覚えがあります。
大学を卒業して結婚してからは、ヤマギシの移動販売車で天然酵母パンや卵、野菜等を購入していた時期がありましたが、いつの頃からか移動販売をやめてしまったようで、しばらくご縁がなかったところ、最近、代々木公園の「アースデイ東京」等に出店されるようになり、お話しする機会が増えました。
昔と比べて皆さん穏やかな印象を受けました。
ウィキペディアによると、現在、全国26か所の実顕地で約1500人が共同生活を営まれているようです。