大学1年の途中、1974年9月に炊事ができる四畳半のアパートに移り、森下敬一先生の本を読みながらユルユルの玄米自然食を始めましたが、当初は圧力鍋がなかったので、電気炊飯器で二度炊きしていました。
今のような玄米モードのある炊飯器ではなく、旧式の白米しか炊けない炊飯器だったので、一度スイッチを入れ、切れるともう一度スイッチを入れて二度炊きするのですが、玄米は水を多く入れなくてはならず、吹きこぼれるので蓋の周りに布巾をかぶせて炊いていました。
圧力のかからないボソボソの玄米ご飯でしたが、味は二の次、玄米であればよかったのです。
まだ料理の経験もなく、おかずは何を作っていたのか記憶が定かではありません。
日本CI協会に通ってマクロビオティックの理論や料理を学び始めたのは、1976年春にCI協会が小田急線「東北沢駅」近くの4階建てのビルに移ってからなので、大学3年になってからでした。
その前年の1975年9月にヤマギシズム特別講習研鑽会(略して「特講」)を受講しました。
高校生の頃、フォークの神様と言われた岡林信康が特講に参加し、その感想文のようなアルバム「俺ら いちぬけた」を発表して影響を受け、さらに当時、学生運動に行き詰まって特講を受ける輩が多く、長兄も受けていたので盛んに勧められていたのです。
特講については説明してしまうと参加する面白みがなくなるので説明しませんが、「本当はどうか?」と常に考えるクセが身に付き、そのため、マクロビオティックも盲信せずに実践することができました。
桜沢先生の教え「ノンクレド=盲信するな!考えろ!」と共通する教えでした。
同じころ、青山学院大学の裏にあったマクロビオティック系ロック喫茶「地球の子供たち」で「タージ・マハル旅行団」のシタール奏者 永井清治さんからヨガを教わっていたのですが、「地球の子供たち」が閉店してしまったため、1976年に西荻窪にできたばかりの「ほびっと村」で日曜日の朝10時からヨガ教室を始めました。
大学3年から4年にかけては、学校では授業そっちのけで音楽サークルに入り浸り(当時はブルースギタリストでした)、学校以外ではヤマギシ会と日本CI協会、ほびっと村に出入りし、アパートではヨガと玄米食とギター三昧の日々を送っていました。
髪は2年間散髪せず、腰まで伸ばしていました。
何でも中途半端が嫌いだったのです(笑)。