盆と正月が一緒に来たように、就職、結婚、出産がいっぺんにやってきました。
昭和54年9月にオーサワジャパンに就職し、10月に入籍。
オーサワジャパンでは卸や通販の出荷を担当させていただきましたが、今のように午前中に受けた注文を午後に出荷する、みたいな厳しいルールはなく、のんびりマイペースで作業をしていたので、一週間分ぐらい伝票がたまることもありました。
だからと言って残業するわけでもなく、お客様からクレームも来ないし、商売っ気のない、いい時代でした。
職場は小田急線の東北沢駅から徒歩2分ぐらいの4階建てのビルにあり、1階がオーサワジャパンの店舗と本社事務所と倉庫、2階は日本CI協会の講演会場、3階はリマクッキングスクールと会長室、4階はCIの事務所でした。
昼食は桜沢如一先生や里真先生からビシビシ鍛えられた吉成千江子先生が作ってくれるとびきり陽性な賄い料理。
陽性な料理は陽性な方でないと作れないという見本のような陽性な先生でした。
この賄いのおかげでスタッフ全員病気知らずで元気に働いていました。
お昼を食べるとほぼ全員が2階に集まって卓球大会が始まり、場合によっては終業後も卓球をしていました。
若いということもありますが、お昼の陽性食のおかげで疲れを知らない身体になっていたのです。
住まいは、小田急線の柿生駅から歩いて10分ぐらいのところ(東京都町田市)に2Kの一軒家を借り、猫の額ほどの庭を畑にすべく、モンペをはいて毎日せっせと耕していました。
畑なんかしたことないような砂利だらけの庭でしたが、スコップで掘り返しては篩(ふるい)にかけて選別するという気の遠くなるような作業を続けました。
狭い庭でしたが、2、3ヶ月かけて種が蒔ける状態にしました。
近所からは、若いのに玄米を食べている変わり者の夫婦に見られていたことでしょう。
出産予定は翌年2月。
妻が若くて健康だったことと、学生時代に兄の友達の出産に立ち会わせてもらったり、芸大の三木成夫先生の研究室で胎児のホルマリン漬けを見せていただいたり、ほびっと村で三木先生に胎児の世界の講演をしていただいたりしたこともあって、何の疑問もなく、当然のことのように自宅で産むことになりました。