プレマシャンティ開発チームの花井です。
この原稿を書いているのは2025年8月15日。
戦後80年の終戦の日です。
近頃は「終戦記念日」と言わず、「終戦の日」と言うようになったんですね。
戦後10年経った昭和30年生まれなので戦争は知りませんが、大正7年生まれの父は戦地に赴き、大正12年生まれの母は愛知県豊橋市で空襲に遭っています。
昭和24年1月に結婚し、ハネムーンベイビーなのか、その年の11月に長兄が、28年2月に次兄、30年9月に男三兄弟の末っ子として生を受けました。
父から戦争の話はほとんど聞いたことがありませんが、昭和30年代にテレビで放映されていた「コンバット」という米国制作の戦争ドラマを毎週欠かさず見ていました。
戦争で苦労したはずなのに、なぜ戦争ドラマを見るのか理解できませんでしたが、ドラマの内容がアメリカ軍対ドイツ軍だったから見ることができたのでしょうか?
当時、父が笑ったところを見たことがなく、幼稚園の頃、叔母の家で、父が叔父と話をしながら微笑んだのを見て、母に「あ、お父さんが笑った!」と驚いて言ったらしく、まさしく「男は三年一度笑う」タイプでした。
父が古希の年に、「之が私の戦争だった」という30ページあまりの手記を印刷し、戦友や知人、親族に配っていましたが、これを読んで初めてボルネオでの父の戦争体験を知ることができました。
母は8人弟妹の長女で、終戦の年の8月に父と弟が赤痢にかかり、ペニシリンを求めて市内を探し回ったにもかかわらず手に入らず、亡くしてしまったことをいつまでも悔やんでいました。
そんな経験からか、子供の頃、ちょっと具合が悪くなると、すぐに医者に連れて行かされ、往診に来てもらったことも何度もありました。
家庭医学書の「赤本」はボロボロになるまで読み込まれていました。
苦労したせいか、押し売りや物乞いには厳しく、いつも一喝して追い返していました。
父は平成13年に82歳で、母は平成28年に93歳で亡くなりました。
戦後80年の終戦の日、父と母の記憶がしみじみと蘇りました。