プレマシャンティ開発チームの花井です。
大正12年生まれで平成28年に93歳で亡くなった母親は、今で言う「化学物質過敏症」でした。
昭和30年代の子供の頃、お風呂のある家は屋根に煙突があり、薪をくべて沸かしていましたが、薪は近所の製材所でお風呂用に束ねたものが売られていて、それを買っていました。
男3兄弟の末っ子ですが、火をつけたり見るのが好きで、幼稚園ぐらいから毎晩火をつけるところから任せてもらっていました。
薪を燃えやすいように組んで、グシャグシャに丸めた新聞紙にマッチを擦って火をつけ、薪に燃え移るようにするのですが、マッチを無駄にしないように1本でつけなくてはならず、緊張しながらも楽しいひと時でした。
昭和30年代までは、買い物は、歩いて3分もかからないところに八百屋が2軒と魚屋が1軒あったので、買い物カゴを持参して買いに行きました。
八百屋で豆腐を買う時は、鍋を持って行った記憶があります。
肉屋は歩いて5分ぐらいでしたが、まだ肉は贅沢品で、父親の給料日に薄いトンカツにするぐらいで、ほとんど用はありませんでしたが、揚げたてのコロッケが好きで、土曜日の昼に、よく買いに行かされました。
トンカツを揚げている油なのでとっても美味しく、1個5円とか10円ぐらいだったので、一度に3~4個食べさせてもらい、大好物でした。
生ゴミは庭に穴を掘って埋めていましたので、家の前の路地に共用のゴミ箱がありましたが、わざわざ捨てるゴミがない時代でした。
昭和30年代後半にテレビが普及するとともにスーパーマーケットができて、プラ袋に入った大手メーカーの商品が少しずつ増え、母親はプラ袋だけは共用ゴミ箱に捨てるようにしていましたが、近所で、プラ袋も一緒に風呂にくべてしまう家もあるようで、異臭がすると、母親は慌てて家中の窓を閉めていました。
プラスティックが燃える臭いが大っ嫌いな化学物質過敏症の母親でした。
そのくせ、化粧のヘアースプレーは何ともないらしく、子供の頃は苦手な臭いだったので、シューッというスプレーの音が聞こえると、ピューッと逃げたものです。
そんな母親の元で育ったせいか、鼻が利くようになり、食品の品質管理には大いに役立っています。
ただ、電車で化粧品のきつい臭いがすると頭がクラクラしてしまい、過敏すぎるのも困ったものです。