プレマシャンティ開発チームの花井です。
Facebookには「過去のこの日」という便利な機能があり、過去の同じ月日に投稿したものが朝一でアップされるのです。
日記を読み返すような楽しみがあり、その楽しみのためにほぼ毎日投稿しているようなものですが、先日10月12日、50年近く前の学生時代に、日本CI協会々長でマクロビオティック料理教室の校長だった桜沢里真先生を、当時ヒッピーの溜り場のような西荻窪の「ほびっと村」にお招きしたことを投稿していたので紹介させていただきます。
以下、10年前の2015年10月12日のFacebookの投稿です。
【桜沢里真先生のこと】
昨日は参加できませんでしたが、リマ・クッキングスクール創立50周年記念パーティーにちなんで里真先生のことを。
里真先生に初めてお会いしたのは昭和51年に日本CI協会が中野ブロードウェイから東北沢に移って間もなく、たぶんパーティーか講演会でした。
1899年のお生まれなので当時70代後半でしたが、笑顔がチャーミングでとてもお美しく、まるでお姫様のようでした。
いつもお弟子さんや生徒さんに囲まれていましたが、カタリーナさん(田中愛子先生のPUネーム)がベッタリくっついていた印象があります。
お話もお上手で、原稿なしで講演やスピーチをされていました。
リマ・クッキングには昭和51年から53年まで2年通いましたが、火曜と水曜の昼と夜に4回開催されていて、火曜は中級・上級・師範クラス、水曜は初級クラスでした。
水曜の昼だけ浮津宏子先生が担当されていましたが、2年間、里真先生のクラスで学ばせていただきました。
女性には厳しくて皆さん叱られてばかりでしたが、数少ない男性には優しく、叱られるどころか誉められてばかりでした。
原宿のマクロビオティックレストラン「モミノキハウス」の山田さんは同期です。
里真先生は料理のほかに「たなすえ(手末)の道」(手のひら療法)の教室も単発で開かれていて、何回か教えていただきました。
右手でお手当てしながら左手は必ず床につけてアースしないと毒気を受けてしまうとのことでした。
往年の大女優 グロリア・スワンソンや歌手のジョン・デンバーが会いに来られたり、世界中からいろいろな方が集まられ、とても華やかでした。
昭和52、53年にお忍びで来日され、渋谷の天味レストランでよく食事をされていたジョン・レノンとオノ・ヨーコ夫妻に会われたかどうかは、お忍びなのでわかりません。
そういえば、ほびっと村にもお招きしてお話いただいたことがありましたが、担当で緊張していたせいか、あまり覚えていません。
オーサワジャパンに入社してからは、CI協会との合同パーティーや会議、株主総会などで同席させていただく機会が増えました。
株主総会は、里真先生のお住まいの近くで桜沢如一先生もよく利用されていた中井の割烹「なか井」で開かれることが多く、お魚料理もデザートのメロンもそれはそれは美味しそうに召し上がられていました。
オーサワジャパンの本社が東北沢のCIから離れ、小茂根、鶴瀬と移転しましたが、確か鶴瀬の開所式に来られただけで、あとは一度も来られませんでした。
実妹のフローラさん(オーサワジャパン創業社長 田中波留子さんのPUネーム)の領域に足を踏み入れないという配慮だったのかもしれません。
実弟の東大名誉教授 澤井芳男先生は日本蛇族学術研究所の理事長でハブの血清を造られ、昭和天皇に講義をされたこともある高名な学者でした。
90代で転んで大腿骨を骨折された時、足がゆがんでくっついてしまい、みっともないので手術して直したいとおっしゃられていました。
その後、復活してCIに来られるようになりましたが、3階の教室まで階段を一気に上られていました。
お付きの方が気を使われて途中で休憩するように勧めると、「休んだら上れなくなっちゃう」と答えられたそうです。
晩年、鶴瀬の高級介護施設に入所され、お見舞いに伺った際、反対に「若い方達はもっと頑張らなくちゃダメよ」と拳を力強く握りしめてハッパをかけられてしまいました。
「2001年まで生きて3世紀生きてください」と申し上げると、「そうね」と嬉しそうでした。
平成10年にフローラさんがお亡くなりになられ、信濃町の千日谷会堂で営まれた社葬に車椅子で参列された里真先生は「先に逝っちゃって・・・」と悲しそうにご挨拶されました。
翌平成11年(1999年)、里真先生も百歳で天に召され、フローラさんと同じ千日谷会堂でお別れしました。
千日谷会堂は、昭和41年に桜沢如一先生没後に開催され里真先生が大会総裁を務められた精神文化オリンピックの閉会式の会場だったようです。