プレマシャンティ開発チームの花井です。
前回の「戦後80年の終戦の日」に載せた父の手記「之が私の戦争だった」の中で、ボルネオで塩造りをした話が興味深いので、「終戦直後の八日間」のうち一日目から六日目までをそのまま掲載します。
一日目(八月十六日)
八月十六日午前九時、宿舎前の狭い空地へ整列して、堀江隊長から終戦の詔勅を聞く。一瞬目がかすみ、全身の力がぬける。二、三日前から何かが変って来たと膚で感じていたのが之だったのかと、強い衝撃と共に無量の感慨が胸中を去来して、そのあと何をしたのか、その日の記憶はまるっきり残っていない。
二日目
数カ月ぶりで桟橋へ出て見る。空襲の不安もなく、艦砲射撃の心配もなしにこうして立って居られる日が、現実にこようなどとは夢にも思えなかっただけに、平和になった事実を素直に受け入れようとしないものが、まだ体のどこかに残っていた。
椰子林の上に広がる機影のない空がこんなにも蒼く深かったのかと、初めて見る様に新鮮で美しかった。
三日目
欠乏していた塩造りを早速仲間と始める。練瓦を集めてカマドを作り、トタン板を拾って来て鍋状に直し、海水を入れて煮沸する。これを何回か繰返す。カマドの作り方が下手だったのか、いくら薪を集めても足りないのには驚いた。夕方になって塩は底にどっしりと固まったが、水分が多く苦いばかりで使いものにならない。失敗。
四日目
製塩作業を続ける。夕方までの工程は昨日と変らないが、今度は結晶して冷めた時点でもう一度火を入れてみる。之は子供の頃、母親が買おきの塩に水気が多くなったとき、鍋に入れて火を通すと綺麗に再製されたのを思い出したのであるが、熱が廻ってくると今迄灰色だった塩の表面が見る見る中に白く変る。火力が強すぎたのか、塩から紫色の炎が上る。急いで火を落し、冷めたのを掌にすくうとさらさらと指の間からこぼれ落ちた。
水分もとれ、苦味もなく大成功。
十粁以上も出来たろうか。
五日目
製塩作業の間に古い網をつなぎ合わせて海中に立干網を立てる。翌朝が楽しみ。
一カ月位前だったろうか、塩が無くなって苦労した。三日も塩分をとらないと、体がまるで腑ぬけの様になったのを覚えている。住民も同じように苦しんでいるのを見て、煙を上げないことを条件に独断で造らせたところ、三日目に守備隊に見つかり即刻禁止、私は守備隊長に呼びつけられて大目玉を喰った。
六日目
製塩作業、立干網の中には小魚が二十匹程入っていたが、どれもこれも何ものかに腹と頭を喰われていて、とても食用にはならなかった。
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生まれてこの方、塩を抜いたこともなければ、減塩したこともないので何ともいえませんが、3日も塩を摂らないと腑抜けになってしまうようです。
塩を摂ることも大切ですが、塩の質も大切ですね。