プレマシャンティ開発チームの花井良平です。
実家にテレビが届いたのは昭和30年代半ばの幼稚園の頃。
今でも鮮明に覚えているのは、馴染みの電器屋さんがテレビを3台ぐらい持ってきて、玄関でどれがいいか選ばせてくれたこと。
チャンネルは、当時主流だったダイヤル式のほかに、押しボタン式もありました。
画面のサイズは、たぶん12インチか14インチ。
もちろんブラウン管方式の白黒テレビです。
それでも、子どもにとっては“文明開化”のような衝撃的なできごとでした。
それまで四畳半の食堂兼居間の壁面に鎮座していた幅50㎝ぐらいのラジオが退いて、そこに新参者のテレビが入ったのです。
ラジオ時代の食卓は、家族5人が向かい合って座っていたのが、テレビが来てからは、全員がテレビを見やすい位置に座って食事するようになり、一家団欒が少なくなりました。
食事中も食後も、ずーっとテレビをつけっぱなしで、おしゃべりが許されるのはCM中だけ。
当時の人気番組の半分以上はアメリカのドラマで、大人向けもあれば子ども向けもありました。
「コンバット」という第二次世界大戦中のアメリカ軍対ドイツ軍の戦争ドラマは、まだ戦後10数年しか経っていないのに、戦争を経験した親達が熱心に見ていたことが不思議でした。
戦争を知らない戦後生まれの子どもにとって、戦争は遠い昔のことですが、戦地で戦った父親もイヤな顔をせずに見ていました。
戦争ドラマ以外でよく見ていたのは、「名犬ラッシー」(コリー)や「名犬リンチンチン」(シェパード)などのホームドラマですが、アメリカの家庭の洋食に憧れ、そのせいか、実家の朝食は一日おきにパン食でした。
おかずは目玉焼きと野菜炒めと果物が定番でしたが、特に人参を千切りにしてシンナリするまで炒め、塩コショウで味付けした人参炒めは大好物で、今でもよく作ります。
パンはトースターで焼いてバターを塗っていましたが、バターは高級品なので、父親が勤めていた店舗併設の食品会社までおつかいに行かされました。
甘いものに飢えていたので、バターの残りが少なくなると、母親の許しを得てバターケースに白砂糖を入れてバターと混ぜ、パンに塗って食べるのが好きでした。
おかげで乳歯は虫歯だらけでした。
幼稚園に持って行った弁当は、ほぼ毎日、卵焼きと炒めたウィンナソーセージか魚肉ソーセージだけ。
ハムは超贅沢品で、庶民にとっては「店頭に飾ってあるもの」で「食べるもの」ではありませんでした(笑)。
母親が終戦の年の8月に父親(祖父)と弟を赤痢で亡くしているせいか、生ものを食べることはなく、近くに魚屋があっても刺身は買わずにもっぱら焼き魚か煮魚でしたし、豆腐を冷奴で食べる時も表面を薄く削って食べるほど神経を使っていました。
昭和30年代半ばは、冷蔵庫も普及しておらず、まだまだ不衛生な時代でもありました。