プレマシャンティ開発チームの花井です。
戦後10年経った昭和30年生まれなので、“戦争を知らない子供たち”です。
子供の頃、戦争は遠い昔の出来事だと考えていましたが、今にしてみれば昭和30年代はまだ戦後のどさくさの時代でした。
生まれ故郷の愛知県豊橋市は、空襲で焼け野原になり、戦後そのまま野原になっているところが、近所に何ヵ所もあって、子供達の格好の遊び場でした。
廃材やクギなどが散らかっていましたので、近所の友達と秘密基地を作って一緒にマンガを読んだりしました。
戦後手つかずの野原には、薬莢や砲弾なども落ちていて、秘密基地に持ち込んでは宝物にしていました。
駅前には傷痍軍人や物乞いがいましたが、母親は「働けばいいのに!」と怒っていました。
大正12年生まれで8人弟妹の長女だった母親は、空襲の中を弟妹を連れて逃げ回り、終戦の8月には母の父親と弟を赤痢で亡くして苦労したようでした。
腕の刺青を見せながらドスをきかせた押し売りが来ても、家に電話もなかったのに「警察を呼ぶよ!」と一括して追い返していました。
電話がなかったのは、父親が仕事から帰った後で会社から呼び出されるのが嫌だったかららしいのですが、長兄が大学で上京することになって初めて電話を引きました。
中学1年の時でしたが、それまでは向かいの米屋さんが呼び出し電話でした。
戦争中に使われた防空壕がたくさん残っていて、小学校の講堂や、吉田城のお堀、山の中腹などに、もぐると真っ暗な穴がいくつも空いていたのですが、さすがに怖くて中には入れませんでした。
近所に焼夷弾で顔中がケロイドで引きつっていた女性が住んでいましたが、テキ屋で働いて頑張っていました。
そんな“戦後”を知っている世代も少なくなりつつあります。
戦争して喜ぶのは巨大な軍需産業ですが、武器を売らなくても成り立つように業種を徐々に転換して平和な社会を築いてほしいものです。
戦争よりも平和、病気よりも健康、不幸よりも幸福、不自由よりも自由、が儲かる仕組みを作らなくてはいけません。
マクロビオティックを提唱した桜沢如一先生の著書「平和と自由の原理」を読み返してみよう。