昭和55年2月19日に長男が誕生しました。
その時のことをオーサワジャパン発行の「カムカム通信」に投稿していますので、そのまま掲載します。
《陽輔誕生》
昭和55年2月19日午前2時半、予定日より2週間遅れて、長男陽輔が産声を上げた。
医師、助産婦の手を借りず、何ひとつ知識や経験の無い私と妻の姉、2人だけに見守られての出産であった。
2月17日午前11時頃、出産の前兆である出血(俗に言うしるし。これは子宮頚管が少しずつ開いてきて、赤ん坊をつつんでいる卵膜と子宮壁の間がはがれかけてくるための出血)があり、夜10時頃から不規則な陣痛(一定の間隔をおいて規則的に起こる子宮の収縮)が始まる。
いつも通り床に着き、翌朝6時頃、5分おきの陣痛で妻は目を覚ました。
出産の本によれば、5分おきになったら、1~2時間で生まれる、と書いてあったため、いつ始まってもいいように準備を整え仕事を休んだが、日中は不規則な間隔(3~30分)で、夕方になっても始まらない。
夜8時頃からようやく規則正しく5分おきとなり、痛みも増してきた様子。
9時に夕食をとり、早めに床をとったが寝られず、10時頃より一段と痛みがひどくなったが、それでも我慢できる程度。
12時頃から相当苦しみ始めたが、ぎりぎりまでいきみを逃がした方がいいとのことで、我慢していたが、それも2時で限界。
突然、天井からたらした綱(前日に用意しておいた)につかまり、しゃがんだ姿勢でいきみ始めたところ、早くも20分程で頭が見え隠れしてきたので横になる。
妻の場合は破水(赤ん坊を押し出そうとする力が強くなり、卵膜の先端が破れて羊水の一部が出ること)がなく、卵膜を通して頭が見えていたため一瞬戸惑ったが、ナイフで卵膜に傷をつけて破水させた。
破水が遅れた原因としては、元来動物性食品が多く入り、陽性体質で卵膜が硬いうえに、羊水も少なかったことが考えられる。
産道が羊水でなめらかになり、グングンと出てくる頭を危なっかしい手つきで押さえて会陰保護をする。
頭が出る時に最も会陰裂傷が起こりやすく、本を参考に見よう見まねで手をあてたが、人間の体は伸縮自在で赤ん坊の大きさに合わせて充分に伸びるものだ。
頭が出てしまうと、体はほんの数10秒で楽に出てきた。
2時30分、元気良く産声をあげ、オシッコを天井に向けてピューッと飛ばした。
体重3,080g、体長50cm。
破水しなかったせいか妻の痛みはひどかったようだが、産道を通る時間が短かったのだろう、陽輔の方はあまり苦しんだ様子はなかった。
顔も体もまっ赤にしてオギャー、オギャーと泣き叫ぶ我が子は、ついさっきまで母体の中にいたとは思えない程、早くも人間の一員として自己主張をしているように見える。
へその緒は予想以上に固くて太く、ぬるぬるしてつかみづらいものである。
拍動の停止を確認した後、へそから2指と、さらに2指先の2ヵ所をタコ糸で縛り、その間をハサミで切った。
15分程して後産(胎盤や卵膜などの胎児の付属物)が出てきたが、不勉強な私は卵膜の傷の有無を調べることを怠り、これは失敗だった。
子宮内に卵膜や胎盤の一部が残ると、なかなか子宮が収縮せず異常出血が起こると言う。
しかし、幸いなことに胎盤は残らず出たようで、ホッと安心した。
胎盤は生暖かくレバーに良く似ており、血を見慣れていない男の私には、ちょっとショックだった。
初めてのお産ではあったが、これといった異常もなく無事に済ませることができた。
私は以前、友人のお産に立ち会ったことがあるが、赤ん坊を取り上げたのは勿論初めてのことだ。
その友人は、経験豊富な助産婦さんに取り上げてもらい、正常出産で、2人目ということもあって、いとも簡単に産まれたことを記憶している。
また義姉の方も出産に関しては私同様、無知と言って良かった。
このような素人2人だけで出産できたのも妻が若く、健康であったことと、日ごろから厳格ではないが、玄米正食を実行してきたおかげだと感謝している。
ここより妻にバトンタッチする。(後編に続く)