《女の側から》
生まれたての赤ん坊は別世界から来たようで、近寄り難い感じがしました。
ここ5ヶ月あまりで人間の仲間らしくなり、お互い新しい存在に少しは慣れてきたようです。
妊娠初期は夫と一緒に“生存への行進”に参加して、毎日10数㎏の荷を背負い、20~30kmの道のりを歩きました。
食事は原則として無農薬玄米、みそ汁、野草、海草等で粗食(食養的にはゼイタク)でしたが、時折、口寂しく店恋しく、甘夏や乾パン、南部せんべい等の買い食いをしたり、仲間が釣ってきた魚も頂きました。
体の要求に正直(?)に従っていたせいか、つわりらしいものはほとんどありませんでした。
体を動かしていたので、知らず知らずのうちの排毒もあり、それも良かったのでしょう。
自宅分娩は初産ということもあり、不安はありましたが、本来お産は自然な営みですし、現在の医療制度への疑問もあって、無鉄砲ですが、万が一異常があれば自分のしてきたことの清算ではないかと、居直り半分、あきらめ半分という気持ちでした。
胎教の面はというと、あれもしたいこれもしたいという、地に足の着かない夢で一杯だった私には、母親になることが重い足かせをはめられるかのように感じられ、いろいろと迷う中で、まるでなっていませんでした。
そういう私も、何とか無事出産を済ませることができ、丈夫な赤ん坊に恵まれ、改めて観念ではなく、体験として、正食の素晴らしさに感嘆するとともに、これまで導いて下さった諸先輩方に感謝したい気持ちで一杯です。(理衣 記)
《親になって》
その後、陽輔もすくすく育ち、妻の産後も順調だったが、ただひとつだけ厄介なことがあった。
現行の戸籍法では、出生届に医師や助産婦等の資格を有する者の証明が無い場合は、赤ん坊の存在を確認するまで入籍できないことになっているらしく、陽輔の場合も法務局の役人がわざわざ我が家に訪ねてきて、私達夫婦の実の子であることを確かめるために、自宅出産の動機、分娩時の状況、胎盤の処理やらを根掘り葉掘り聞きに来た。
手続きがスムーズに行かなかったこともあって、1ヵ月もかかってやっと入籍することができたのである。
専門家の介助による分娩が99%にも達している現在(表参照)、私達のようなケースの方が異常と見なされるのも、無理ないかも知れない。
水や空気、土等、私達をとりまく環境が全て汚染され、その環境の産物である食品も毒物と化し、不自然食品が当たり前で、何が自然であるかの判断すらできない時代に、病院で薬や注射、手術等によって人為的に産ませられ、保育器に入れられたり、人工栄養で育てられた子供達の行く末を思うと、恐ろしくもあり、また悲しくもある。
激動の80年代初頭に生を受けた陽輔は、ちょうど西暦2000年に成人することになるが、一体どんな世の中になっているか、現在の方向を見失い、混乱しきった社会情勢から考えると、非常に悲観的になってしまう。
昭和30年に生まれ、精神の豊かさを忘れて物質の豊かさだけを追い求めてきた高度経済成長時代に、ぬくぬくと何の苦労もなく育った私には、これから迎えるであろう試練を我が子と一緒に乗り切ることができるかどうか、あまり自信はない。
しかし、親になってからというもの、以前は目先のことばかりで自己中心的な見方をしがちだった私が、子の代、孫の代と続く未来社会について考え、積極的に働きかけて行こうという気持ちに変わったのも、新しい生命の波動を受けたおかげだと思う。
我が子を自らの手で取り上げたことで“生”への執着が強くなり、私自身の内なる自然が大きく胎動し始めたのだろう。
生命の営みは、太古の昔から未来永劫まで変わることなく繰り返される。
私達も、陽輔の誕生を機に、すべてを生かしてくれる大親=大自然を思うとともに、平和な社会を祈り、築いて行くための努力をしようと、意を新たにしている。
合掌
※ 昭和55年7月に発行されたオーサワジャパンの「カムカム通信」より。