昭和30年生まれなので、戦後10年の生まれです。
子供の頃、戦争は遠い昔の出来事のように考えていましたが、いま振り返ってみると、まだ戦後のドサクサが残っている時代でした。
故郷の豊橋は昭和20年6月にB29の空襲を受け、市街地の70%が焼失したので、原っぱで遊んでいると、よく空の薬莢や砲弾を見かけました。(不発弾は処理されていましたので、事故はありませんでした)
同じ路地に、焼夷弾で大火傷をして顔にひどいケロイドが残ったまま働いている女性が住んでいました。
駅前で傷痍軍人が物乞いしていたり、家に押し売りが来たのも昭和30年代後半まででした。
テレビや洗濯機、冷蔵庫などの電化製品が普及し始めたのも昭和30年代半ば。
テレビが来るまでは、真空管ラジオが居間の一等地にデーンと鎮座し、家族みんな耳を澄まして聞き入っていました。
洗濯機が来るまでは、母親が風呂場でしゃがんで洗濯石鹸で手洗いしていました。(近所の川にも洗い場がありました)
冷蔵庫が来るまでは、木製で内側にブリキ?が張られた小さい保冷庫みたいなものがあり、氷屋さんから氷の塊を買って冷やしていました。
といっても、当時は朝食前に八百屋に買い物に行き、夕食前に八百屋と魚屋、肉屋で買い物していましたので、夏の傷みやすい時季だけ魚や肉を短時間冷やしていたと記憶しています。
買い物は、いわゆる生鮮三品だけで、加工品が登場したのは、スーパーマーケットが進出してきた昭和30年代後半から。
それまでは近所のお店に買い物カゴを持参し、野菜はそのまま、魚は新聞紙にくるみ、肉は経木に包んでいたので、燃えないゴミはありませんでしたが、スーパーができて遠方から流通されるようになってから、ビニール袋に入った食品添加物入りの食品が一気に広まりました。
ビニールは家で燃やしたり埋めたりできないので、路地に一ヵ所あった共用のゴミ箱に捨てるようになり、不定期でゴミ収集車が回収に来ていました。
近所の八百屋、魚屋、肉屋で売られていた食品は、まだ物流が発達していなかった時代なので、近場でとれた旬のものがほとんどだったはずですが、食品添加物とは無縁の、身土不二の生活ができていた時代です。
ただし、駄菓子屋さんのお菓子には合成着色料や合成甘味料がたくさん使われていて、買い食いして帰ると、舌に色がつくので、すぐに母親にバレて、よく叱られたものです。
昭和30年代は、39年に開催された東京オリンピックに向けて、東海道新幹線も開通し、急速に世の中が変わった時代でした。