生まれ育った愛知県豊橋市の実家は、豊橋駅から10数分かかるので商店街からは離れていましたが、小学校が近かったせいか住宅が密集していて、徒歩5分圏内に八百屋2軒、魚屋1軒、肉屋1軒、駄菓子屋2軒のほか、駄菓子も扱う兼業店が4軒ありました。
何の兼業店かというと、パン屋、文房具屋、貸本屋、プラモデル屋です。
駄菓子屋専業の1軒は、夏はかき氷、冬はホットミルクを扱う人気店で、もう1軒は、焼きそばやお好み焼きを店内で調理するお店でした。
子ども相手なので、かき氷も焼きそばも、当時の子どもの1日の小遣いの相場10円から買えました。
焼きそばやお好み焼きは目の前で作ってくれるので、それを見て、家でもお好み焼きを作ることがありました。
幼稚園児でも、母親は包丁を持たせて料理させてくれましたし、ガスコンロも使わせてくれました。
料理といっても、キャベツを刻んで、豊橋ならではのチクワを切って、小麦粉と水を入れてかき混ぜ、フライパンに油をひいて焼くだけ。
子どもの頃は粗食だったことと、動き回ってばかりいたので、いつも空腹感があり、こんな素朴なお好み焼きでも、とても美味しかったのです。
そういえば、前回、ビフテキは夢のまた夢、と書きましたが、子どもの大好物のハンバーグは安い挽肉でできるので、母親はよく手作りしてくれました。
手間のかかる料理は嫌いと愚痴っていた母親ですが、子どもが喜ぶものは作ってくれました。
幼稚園や小学校低学年までは小遣いは日払いで、1日10円だったと記憶しています。
毎日、幼稚園や学校から帰ると母親から10円もらい、しっかり手に握りしめて買い物に行くのですが、何に使うか考えて、どの店に行くのか決めるのがまた楽しみでした。
ガムやアメ玉を買うこともあれば、クジを引くこともありました。
当時は食品添加物全盛期で、駄菓子には合成着色料がたっぷりと使われていましたので、外で買い食いして何食わぬ顔して帰っても、母親から「舌を出して!」と言われて真っ赤や真っ黄色な舌を見せると、「〇〇を食べたね!」と叱られたものです。
合成着色料は見てわかるため、母親は身体に悪いと嫌っていました。
昭和30年代後半に商店街にスーパーマーケットができるまでは、八百屋も肉屋も魚屋もバラ売りや計り売りで、カゴを持って買い物に行くため、ゴミは魚を包む新聞紙や肉を包む経木ぐらいで、不燃ゴミは一切ありませんでした。
豆腐も鍋を持って買いに行っていました。
名神高速道路が昭和38年に開通し、翌39年に東海道新幹線が開通。
交通網の発達とともに、その土地、その季節のものを食す「身土不二の原則」は崩れ、全国から集められた食品添加物&化学調味料入りのきれいに個包装された商品をスーパーマーケットで買うという、一億総半病人時代を迎えたのでした。