本稿執筆現在、3月中旬ということもあり、新型コロナをめぐる情勢や経済事情が激変しています。過去にこれほど多事争論を書くことが難しかったこともなく、情勢の認識よりも、これ以上状況が悪化しないことを祈る気持ちのほうが大きいのです。本誌をご愛読の皆さまが、厳しさのなかにも明るい気持ちを感じておられると、未来に向かって宣言します。
「メディアやネットの情報にしがみつかないように」と、メールマガジンなどで繰り返し訴えている私ですが、経営者という立場もあり、やはり最新の情報はしっかりつかんでおかないといけないという焦りもあって、つい画面に向かい合っています。幸いなことに、個人的には子どもたちの卒業式は小規模ながら開催され、いろいろ気をつけていることもあって、例年のこの時期よりも元気に過ごせている気がしています。すっかり人が少なくなった京都で、またひとり春を堪能できそうな季節もやってきました。
今、思い出すこと
思い出せば、とても月並みな表現で恥ずかしいのですが、私が路傍の草木にあふれ出る命の美しさを感じたのは、長い介護生活と、それに続く葬儀が終わった翌日でした。中学2年のときから23歳まで、途切れることなく働き、生活の基盤となる政治に高い関心をもち、看病に明け暮れた毎日は、青春時代のキラキラした景色というよりも、どんよりと曇っていたように思い出されます。自分が生活をささえ、病んだ親族を看なければいけないという重圧と、その厳しい生活が私を強くしたことは間違いありませんが、それらがリセットされた瞬間に感じられたのは、自由の空気でも心躍る街角の歓楽でもなく、家の前に生えている雑草の躍動する波動そのものでした。普段はまったく気にもしていなかったその小さな命の、力強さと圧倒的な存在感に胸を打たれてしまい、しばらく一人号泣したように記憶しています。
忙しくなるとそういうことを思い出すこともほとんどなくなってしまうのですが、世の中の状況が厳しくなるときには必ずそのときのことを思い出してしまうようです。
その後、私の人生観を大きく変化させた出来事がインドで起きました。当時もやはり人生真っ暗闇で、幼子を抱えてどうやって生きていこうと出口のない暗闇に迷い込んだような状態で、答えを探しに当時2歳だった娘の手を引いてインドに行ったのです。そこに2週間ほど滞在したのですが、私のような凡人にはさしたる気づきもなく、「ここでこんなことをしていても仕方ない。ここに来られたことを感謝してもう帰国して現実を生きよう」と覚悟を決めました。ところが、もう帰国という瞬間に、心と魂にとても言葉にはできない幸福感が押し寄せ、その猛烈な波のなかで涙とともにすべてが洗い清められたようでした。
帰国してからも現実はなにも変わっていなかったのですが、ものの見方がすっかり変わってしまったことで、結果的にはプレマの創業につながる流れができていたのです。
砂の上の足跡
ここまで回想をすすめたところで、2013年を最後に長く紹介してこなかった素敵な詩があるのを思い出しました。読者の皆さまに、いつか役立つこともあるかもしれないと思い、引用させていただきます。詩中にある「神」は、あなたにとってそのような存在と置き換えて読んでいただければ幸いです。
ある晩、男が夢をみていた。
夢の中で彼は、神と並んで浜辺を歩いているのだった。
そして空の向こうには、彼のこれまでの人生が映し出されては消えていった。
どの場面でも、砂の上にはふたりの足跡が残されていた。 ひとつは彼自身のもの、もうひとつは神のものだった。
人生のつい先ほどの場面が目の前から消えていくと、彼はふりかえり、砂の上の足跡を眺めた。
すると彼の人生の道程には、ひとりの足跡しか残っていない場所が、いくつもあるのだった。
しかもそれは、彼の人生の中でも、特につらく、悲しいときに起きているのだった。
すっかり悩んでしまった彼は、神にそのことをたずねてみた。
「神よ、私があなたに従って生きると決めたとき、あなたはずっと私とともに歩いてくださるとおっしゃられた。
しかし、私の人生のもっとも困難なときには、いつもひとりの足跡しか残っていないではありませんか。
私が一番にあなたを必要としたときに、なぜあなたは私を見捨てられたのですか。」
神は答えられた。
「わが子よ。 私の大切な子供よ。 私はあなたを愛している。 私はあなたを見捨てはしない。」
「あなたの試練と苦しみのときに、ひとりの足跡しか残されていないのは、その時はわたしがあなたを背負って歩いていたのだ。」
(作者不詳)