今月はきわめて個人的な話ばかりでお目汚しとなりますこと、まずはお詫びいたします。先月十一月二日、私の母(勝子)が八一歳で永眠しました。最後の約二週間は私が毎日付き添うことができましたし、病院とも無用な延命治療は行わないことでお互い認識を共有していましたので、混乱することもなく最後の時を迎えることができました。この間、ドクターはじめ医療チームの皆さま、そして弊社のスタッフにも大変お世話になりました。ほんとうにありがとうございました。
こだわりをもたないということ
こだわりとは、漢字で書くと「拘り」と書きます。コウ、と発音し、以前は悪い意味合いで使われることが多かった言葉です。「拘禁」「拘束」「拘置」などに使われるとおり、とらえたり、つないだり、とらわれる意味を持ちます。最近では「こだわりの素材」「こだわりの製法」などの意味で、信念があるという良い意味で使われることも多く、私たちのページにもよく登場します。私以外の人が文章を書くと、どうしても最近流行のこの言葉を使って品の優れた点を表現しようとしがちですが、決してそれが間違っているわけではありません。特に環境に、そして身体によい何かを作るときには、価値観がブレブレではいけません。経済的有利さ、お金をより多く得ることだけを求めれば、それ以外の価値にこだわる意味はなくなり、それは現代の病理そのものですから、「こだわりをもった○○」は、それが真実である限り、価値あるものといえるでしょう。ですから、「中川さんはこだわっている方なので、安心できます」と言われると、当然悪い気はしません。しかし、中川家の3人の女性、つまり母、養母、祖母はいずれもこだわりの極めて少ない人でした。
人の価値を高める
私はその3人から、いつも「偉い」と言われて育てられました。文盲の祖母は「字が読めるから偉い」、養母からは「しっかりしていて偉い」、母からは「怒ると怖いけど偉い」と、偉い偉いづくしです。とにかく何でも良かったのでしょう、これは溺愛ともいいます。私の上3人の子どもたちが通う学校の学園長も、「溺愛されて育った子は、厳しく躾けられた子と比べて大人になってからの伸びしろが違う、それは自己重要感をちゃんと感じているからだ」とよくおっしゃいます。親にこだわりがあれば、あれをしなさい、これをしたら偉いという条件がつきますが、私を育ててくれた3人にはこれがほぼ皆無でした。私がなんであっても、それで良かったのです。母もそういう人で、あれこれ希望はいいますが、それに固執することはありませんでした。自分の病気も「先生にお任せします、聞いたところで私には分かりませんから」とさっぱりしたものでした。つい、仕事柄「おいおい」と言いたくなりますが、母はそういう人なんだと言葉を飲み込みました。前提がない、ということは、素晴らしいことだと今はよくわかります。母は幸せになること、子どもをしっかり育てることにも固執しなかったので、最後に幸せを手にしました。生まれたときから仏のような人たちに育てられた私、そしてそんなラテンな感じは、私の芯にいつも忍んでいます。「明日には、明日の風が吹く。たとえ今日がなんであれ、明日になれば何とかなるさ」。母は晩年、ズンドコ節を口ずさみ、全身の痛みと強い鎮痛剤の波のなかでも、やはりズンドコのリズムに体が本能で動きました。いつも前提を必要とせず、滅多に無理をしようとしなかった、常に今の自分を生きようとした母の子であったことを、心から誇りに思い、感謝しています。