私たちはなにかをすることで
評価される世界に生きている?
小学生のころ、図工の授業で粘土工作の時間があった。車や動物など、作りたいものを作る。授業が始まって、私はすぐに「これだ」と思いついて、粘土の塊を丸めて、指紋が付かないように工夫しながらツルツルの球を作った。そして、3つの穴を作って教壇の先生のところへ持っていった。
クラスの誰よりも早く完成したのでクラス中の注目を浴びている。そのとき、私の作品を見た先生は「これはなに?」と言った。先生はわからないんだと思いつつ、「ボウリングの球」と言ったら、クラス中に笑われた。そして、先生には「別のものを作ろうか」と提案された。授業ではなにを作ってもいいはずなのに、車や犬は良くて、どうしてボウリングの球はダメなんだろう? 納得がいかなかった。数日前に、家族で初めて行ったボウリングが楽しかったから、それを作ろうと思っただけなのに。
私たちはなにかをすることで評価される世界に生きている。だから、評価されるためには、がんばらないといけない。粘土を丸めただけでは評価されず、作りたくもない車を作ったほうが評価されるのだ。そういう私も「がんばらないと評価されない」と、自分でいろいろなルールを作ってきた。効率的に正確に仕上げる工夫をするのは、ある種の達成感はあるが、どんどん窮屈になる。まるでルールを守るために生きている状態だ。たしかに、評価はされるが、満たされないものはどんどん積み重なっていく。
最近は考えを逆にするようにしている。手を抜くわけではなく、自分ひとりでやろうとし過ぎないようにしている。無責任に見えるかもしれないが、俯瞰してみると私が動くことでだれかがチャレンジする機会を奪っていたのかもしれないと思うのだ。
絵画でも、具象の絵を描くと、すぐに上手下手の評価の世界になる。でも、抽象画では何気なく引いた線がかっこよくなるなどの偶然性があって心地いい。描こうとせずに、描く。すると、できあがったときに発散した感じがある。なにか心のなかにしまっていたものが外に出た感じがするのだ。そんな経緯で描いたものが意外に評価される経験をして、がんばっていたのはなんだったのかと驚く。みんなもっとボウリングの球を作ったらいいのではないか。ボウリングをして楽しかった。だからボウリングの球を作った。それでいいのではないか。
肩の力を抜いて作ったものが、評価されることもある。学校の先生には評価されないとしても、求める人は必ずどこかにいると、いまの私は信じている。