今、いちばん流行らない価値観かもしれませんが、私は断定するのが好きではありません。時代の流れはどんなことでも断定的に言い切ることがよしとされ、場合によってそれは「論破」などともいわれ、かっこいいことの象徴とされています。たとえば「ワクチンは毒でしかない」という人がいる一方で、「ワクチンにはいいことしかないので打たないのはバカ」などと断じられることもあります。冷静に考えれば、衛生状態が良くない国で風土病が蔓延しやすく、乳幼児の死亡率を下げるためにはワクチンが必要なこともあるかもね、と私は思っています。しかし、まだどの国でも承認していない薬剤をこの日本で打ってみようという試みについては、実験するのは日本じゃなくてもいいかもね、と考えます。単なる優柔不断な人のようですが、私なりに逆説を俯瞰して考えるとこういうものの言い方になりますし、必ずしも自分がすべての逆説を網羅しているわけではないのもわかっています。ものごとに対する考え方は究極的には人によって違うのは当然かもね、なのです。
「〜かもね」を言い換える
「〜かもね」は「〜かもしれない」になります。英語だとmaybeに相当し、言い切りを避ける配慮的な表現と考えられています。あなたがだれかになにかを相談したときに、言い切られたらどんな気持ちになるでしょう。私は本号が発行されるころには病院のベッドにいますが、私の骨格の病気については、ありとあらゆることを言われました。「そういうのは西洋医学で治すよりも、代替療法がいちばんいいですよ。それしかないです。私の知っている○○先生をご紹介します」などというのは何十回も聞きました。伝えてくださる方にとっては100%親切心なのだと思うのですが、その類いの治療を続けても悪化はしても良くなることはなかった私自身の経験があります。これは、聞くほうの私が「この方は私を心配してくれているので、まずは感謝を伝えよう、そして曖昧な返事を考えよう」とします。これが医師からの言葉であればどうでしょう。あるとき、何度か通院して効果を感じたペインクリニックに行って痛みの症状を伝え、「いわゆる座骨神経痛だと思うのですが」というと、医師は「それは位置が違うから座骨神経痛とはいわない」と言い切られました。だからなにか、という話は一切なく、素人のお前の言うことは違うと断じられて、結局それ以降注射が効くことはなくなりました。見立てが違うのですから、効くはずもありません。その後、別のクリニックに行くと、「これは腰椎を原因とする座骨神経痛ですね、お辛いでしょう」と言われると、それだけで安心するわけです。おかげさまでその先生の注射はそれなりに効いて、術前の最後までお世話になりました。最初の医師が「座骨神経痛とは違うかもしれないですが、痛いのはなんとかしたいですよね」と言ってくれたらどれだけ安心できたことでしょうか。「○○ではない」と言うのは簡単ですが、じゃあなに?という疑問符が点灯したまま、なにかがよくなることがないのは残念の一言につきますし、私は医師免許保持者に論破されただけです。そんな経験から、もう手術しかないと覚悟して数々の外科医の扉を叩きますと、また同じようなことのくり返しです。あるときは「○○医師が以前に頚の手術したのなら、自分はその後始末などできるほど優秀ではない」と、診察室から追い出されることも経験しました。その先生は低侵襲な腰椎手術の開発者で大変有名な方ですが、いくら有名でもこれでは話になりません。そんな経験を通じて、患者道を極めた感じです。最終的に私の身体にメスを入れる先生は、ご自身のホームページに「私ができることを、一生懸命させていただきます」と必ず文末に入れる先生でした。とても安心して受診することができ、地味で寡黙な先生ですが、饒舌でアピールがすごい先生よりも、委ねようという気持ちになれるものだと改めて思いました。私は靱帯骨化症という靱帯が骨のように硬くなる生まれつきの体質をもっているようで、頚、そして今回は腰と症状が進んできましたが、代替医療だけでもよかったのかもね、でもそれでよくならないのなら、手術でよかったかもしれないね、と納得しています。なにが正解かなど、神以外にはわからないことで、そもそも私が断じる立場にはありません。
決められないのは仕方ない
本稿でお伝えしたいことは、あなたもそうやって決められないことがたくさんあっても、私は急かすことも、また責めることもするつもりはない、ということです。人生の大事な局面で、急いで決めなければならないこともたくさんあるでしょう。しかし、可能性をいろいろ考えてしまい、どうしても動き出せない、というあなたのことが大好きです。ただひとつだけ。いつまでも決めないと、手遅れになってしまうこともたくさんあります。その決断をしなければならないときは必ずやってきます。決めたら最後、思い切って前に進んでください。後悔してもかまいませんし、他の可能性を懐かしんでもかまわないのです。私からお伝えしたいこと、それは「その決断は最善ではなかったのかもしれないね、だけど、決めたこと、前に進んだことを応援したいと思っています。なにかお手伝いできることがあったら、私ができることを、一生懸命させていただきます!」