「ワンネス」とは、自分と世界を分ける境界がなく、すべてが「一つ」であるという考え方です。科学の進展によって、スピリチュアルな文脈で語られてきた概念が、私たちの認識の問題としても捉えられるようになってきました。新しい話ではありませんが、私たちのものの見方そのものを揺さぶる力があります。
たとえば、今コンビニでスイーツを買ってきたとします。食べ終わったあと、なにが残るでしょうか。そうです、空になった容器です。それはゴミ箱に捨てますよね。人類は昔から、自分にとって価値があるもの以外を「ゴミ」と認識し、捨ててきました。これが世の中の圧倒的な認識です。
最近では「資源ごみ」という言葉もあり、捨てたはずのものが別の役割をもちうると知られるようになりました。しかし、ゴミだろうが、スイーツの中身だろうが、すべては分子、ひいては原子からできています。炭水化物には炭素が含まれていますが、その炭素はどこから来たのでしょうか。宇宙の塵が集まって地球ができたとき、炭素もまた地球の一部として参加しました。それ以来、形を変えながらも炭素であることは変わっていません。核反応でも起きない限り、原子は別のものにはなりません。あなたを構成しているタンパク質も、炭素を中心にできています。生きているあいだ、新陳代謝によって炭素は入れ替わり、どこかからきて、どこかへ出ていきます。
ここで少し立ち止まって考えてみます。私たちは日常生活のほとんどを、切り分けのうえで成り立たせています。名前を付け、分類し、役割を与えることで、世界は安定して見えるようになります。その一方で、その安定は、切り分けが正しいという前提のうえに成り立っているともいえます。
ゴミと呼んだ瞬間に、それは「自分とは無関係なもの」になります。捨てるという行為は、物理的に距離を取るだけでなく、認識のうえでも世界から切り離す行為です。人間はこうして、世界を「自分」と「自分ではないもの」に分けながら生きています。
けれども、切り離されるのはあくまで認識のなかだけです。原子のレベルでは、なにひとつ断絶していません。ゴミ箱に入れた容器も、燃やされ、砕かれ、別の形で循環していきます。見えなくなっただけで、消えてはいないのです。
先ほどのスイーツの話に戻ります。そのスイーツは、少し前まではコンビニの棚にあり、明らかにあなたではありませんでした。では、あなたがそれを食べた瞬間、それはあなたになったのでしょうか。胃で消化されたら、あなたでしょうか。血液中で糖となり、グリコーゲンに変わったあたりから、あなたなのでしょうか。
この変化を追っていくと、「ここからが自分」という境界が、いかに曖昧かがわかります。私たちは物質として、単独で存在しているわけではありません。常に外とやり取りし、混ざり合い、循環の一部として存在しています。
それでも私たちは、世界を切り離し、別々のものとして理解することでしか、世界を把握できないようです。私たちは普段、その切り離された世界を、疑うことなく現実だと思っています。机は机であり、他人は他人であり、自分は自分だと。しかし、その境界は原子の流転から見ると、便宜的なもので、必要に応じて引かれた線にすぎません。その線を強く信じすぎたとき、世界は固定され、動かないもののように見えます。逆に、その線が仮のものだと気づいたとき、世界は流動的になり、自分と外との関係も、変わりはじめます。ゴミと呼び、外に出し、見えなくする。その認識の仕方自体が、「自分」という輪郭を保っているのかもしれません。ワンネスとは、すべてが一つだと信じ込むことではなく、その輪郭が仮のものであると、気づくことなのではないでしょうか。
