「えんどうの花」
作詞 金城英治/作曲 宮良長包
一 えんどうの花の 咲く頃は
幼い時を 思い出す
家の軒端に 巣をくって
暮れ方かえった あのつばめ
二 えんどうの花の 咲く頃は
冷たい風が ふきました
妹おぶって 暮れ方に
苺を取りに 行った山
三 今朝はつめたい 風が吹き
つばめが一羽 飛んでいる
えんどうの畑は 寒けれど
わたしゃ一人で 帰りましょう
日本人にとって「故郷」や「朧月夜」や「春の小川」などはその歌が流れてくると、歌に合わせて自然に口ずさみ、郷愁にひたる時が持てると思う。私たちには「えんどうの花」がまさに同様の歌です。
歌が生まれたのは大正十三年。日本では明治末期から花開いた大正ロマンティシズムの晩期です。多くの童謡、唱歌が生まれ、現在まで歌い継がれています。金城英治は沖縄本島北部の学校で教師をしていた時に作詞したと言われています。しかし「えんどうの花」はそこの情景の中で生まれたのではありません。彼の原点はこの宮古(島)です。1903年(明治36年)に宮古で生まれました。この年は宮古・八重山において歴史的悪税制である人頭税が廃止された年です。まさに新しい時代の夜明けの年に彼は生まれました。沖縄本島首里にある旧制第一中学校を卒業し、大正10年、4月、故郷の宮古(島)の新里尋常高等小学校に赴任し、教師生活を送りました。しばらくして、転勤せねばならなくなり、教え子たちと涙の別れをしました。その時期、学校の周りの畑では白い可憐なえんどうの花が咲いていました。彼には子どもたちとのふれ合いの日々がいつまでも強く強く心に残っていたと思います。宮古(島)から沖縄本島北部へ移った後にこのような郷愁に満ちた詞ができた事はその表れだと思います。この詞がかもし出す情感は彼の人柄を偲ばせます。彼は28才の若さで亡くなりました。転勤のため、先生と別れた教え子たちや村の人たちはその後も先生を慕い続けました。「えんどうの花」はいつまでもみんなの心に残りました。
彼とえんどうの花との出合いは偶然でしたが大切な事だったと思います。旧上野村の人たちはもともと海寄りの低地で集落をつくっていましたが、大津波で大被害を受け、高台に移り住みました。しかし、そこは畑はせまく飲み水の確保さえも難しく、そこで生き抜くことは容易な事ではありませんでした。旱魃が続けば飢饉になり、餓死者が出る事もしばしばありました。人々は生きるためにやせ地でもつくれる作物を探しました。豆類はその一つです。豆類といもは主食として人々のいのちの糧だったのです。
豆類には多くの種類があり、一年中つくられていました。えんどうの原産地はエチオピア、中央アジア、中近東と言われます。日本には明治時代に導入され越冬野菜として全国に普及しました。豆もサヤも食べられます。栽培適温が15度から20度と低いえんどうがなぜこの宮古(島)で拡がったのか? 二つの理由が考えられます。一・栽培適温がこの宮古(島)の冬の気温である。
二・宮古(島)はそのほとんどがアルカリ性土壌である。琉球列島はこの宮古諸島、伊江島、平安座島、宮城島、伊計島、本島南部地域の一部などを除き、酸性土壌であり、えんどう栽培には適しません。パインには適しています。ソテツ地獄の体験など生きぬく事が難しい地域にあってはえんどうにかける人々の思いは格別だったと思います。詞には表されていませんが作詞者金城英治は子どもたちや人々の思いを込めて作詞したことが伝わってきます。
八重山石垣島出身の宮良長包(1883〜1939)は沖縄伝統音楽と西洋音楽との融合をめざし数々の名曲を生み「沖縄音楽の父」「沖縄のフォーター」と称えられています。「えんどうの花」の外に「安里屋ユンタ」「なんた浜」「汗水節(あしみじぶし)」があり、映画「えんどうの花」も創られています。
川平 俊男 1950年米軍統治下の宮古島で生まれる。家業は農業。自然豊かな前近代的農業、農村で育つ。69年島根大学へ留学。趣味は器械体操といたずらを考えること。70年代から親の家計を助けるため那覇で働く。「オキナワーヤマトユイの会」に参加し援農活動の受け入れ。「琉球弧の住民運動」事務局に参加し奄美琉球各地域島々の地域づくり島興し運動を支援。沖縄農漁村文化協会を結成し農漁業、農漁村の未来像の研究を続ける。宮古島に戻り農業をしながら自然塾を主宰し、農的学習法を編み出し、地域教育に取り組む。一方で農作物の研究および生産を始める。多くの生産者が作っても売れない事情を知り販路拡大の応援。95年ごろ「宮古の農業を考える会」を結成し有機農法の普及拡大と循環型社会づくり運動を始める。有機農法の限界に気付き、無農薬無肥料栽培に進む。10年前から親の介護を続ける。 |