私には35年抱えている家族の「謎」がある
私の父は小さな会社を経営していた。家の外では、それなりに経営者をやっていたのだと思う。家では父としての威厳もあるが、驚くほどできないこともあった。その一つが「一人で買い物に行く」ことだ。買い物に行くことが恥ずかしいらしく、すべての買い物は母の役目だった。
私が小学一年生のころのことだ。母が父に内緒で高額の買い物をしたらしく、父と喧嘩していたのを覚えている。母がなにを買ったのかはわからないが、私は隣の部屋の隅で父と母が怒鳴り合うのを聞いていた。今でもその光景が目に浮かぶのだが、そこで衝撃的な話を聞いてしまう。どうやら母には、私と弟以外にも、どこかに子どもがいるらしいのだ。私が子どもだからと油断していたのか、感情が高ぶってつい出てしまったのかわからないが、父も母も私が聞いていたことに気づいていないようだった。それが事実なのか、それとも私の聞き間違いなのか確かめたくても怖くて確かめられなかった。これまで私は父と母の若いころの話などを聞いたことがない。今思えば、もし私の心の準備ができていないときに、ふいにその話をされるかもしれないという怖さがあったのだろう。だから、親とのコミュニケーションをできるだけ避けてきた。
事実を知るのが怖くて、未だにそのことを聞けていない。母に私と弟以外の子どもがいても、私の母には変わりないのだが、母にとって、私のような息子で幸せだったのだろうか、私の知らない子どもの母のほうが良かったのではないかと考えることがある。10年前、亡くなる直前の父は意識が朦朧としているなか、最期まで「愛子(母)好きや〜」と繰り返していた。私の前ではそんな素振りを見せたことがなかったのでとても驚いたが、夫婦関係が良かったと思えると、私の心配が少し軽くなる。
先日、伯母の四十九日の法要で母の家に行く機会があった。いつもなら外食しましょうという話になるのだが、私の思いつきで、母のために料理を作ることにした。母は買ってきた惣菜ばかりを食べているので、出汁をとって野菜たっぷりの味噌汁と母が好きなさつまいもの煮物を作った。それが嬉しかったのか翌日の法要のときに親戚中に自慢するので恥ずかしかった。
今、この記事を書きながら、母に電話をしてみた。無邪気な声で「この間はありがとう」と言われると、事実を確認するのは「今じゃなくていい」と納得しようとしてしまう。重大な謎だが、母が元気ならいいかと思うのは息子の「さが」だろうか。