佐賀県諸富町に、全国でも珍しい発芽にんにくと地元産の有精卵やすっぽんの卵を使ったにんにく卵黄を作る会社があります。「小さな田舎町でやるのだから、大きなこだわりを持って、どこにも真似できないものを作りたい」と話す、「アホ隊長(アホはスペイン語でにんにく)」こと江副氏。開発秘話とユニークな経営スタイルについて聞きました。
「事業計画や目標は立てません。計算しなければ、計算外がくるんです」と話す江副氏。誇れるのは、地元生産者さんとの関係と、お客様からの大量の好評レビュー、70%以上というリピート率の高さ
若いころは外国航路の船員を経て、長い間カメラマンでした。2003年に、ある写真コンテストでグランプリを獲りました。しかし、親父にひと言、「たとえ日本一うまいカメラマンになったとしても、請け負う側にすぎない。そういうカメラマンに写真を撮らせる男になれ」と言われたんです。思うところがあったので、カメラマンの仕事を辞めました。
その後、経営者を目指して太陽光発電の販促に携わっていたとき、ある営業マンに「珍しいにんにくを見つけた」と聞いたんです。それは、特別な栽培方法でしか育たず、芽と根が出たスプラウト野菜の状態で収穫するにんにくで、栄養価が非常に高いということでした。さっそく生産者を調べて、全国に5軒しかないうちの1軒に電話して行ってみることにしました。そこで栽培されていたのが、ひげにんにく(登録商標)でした。生産者の女性は、たまたま道の駅で見つけたひげにんにくを天ぷらなどにして食べていたら体調が改善したそうで、これを広めたい一心で、農業の経験などまったくないのに、自分で栽培を始めたそうです。話を聞くうちに、まあ無責任というか、私も物販の知識や経験なんてまったくないのに、勢いで「販売のお手伝いをしますよ」と言っちゃったんです。2013年当時、スプラウトにんにくの存在はまだ世に知られていませんでした。手探りで販売方法を探すうちに、にんにく卵黄を作ってはどうかと言われて、江戸時代から継承されているという、にんにく卵黄の伝統製法を習いました。薩摩藩で参勤交代に赴く家族のために作られていたという当時のままの製法です。ひげにんにくと卵黄を熱しながら、手で何時間も練り続けた後、また手で小さな粒状に丸めていきます。部屋がにんにくの熱気で充満するなか、すべて手作業でおこなうのは、かなりの根気と労力を必要としますが、できあがるにんにく玉は一切混じりけのない、素材のエネルギーのかたまりです。卵は、無農薬栽培の野菜やえごま油の絞りかすなどを食べて育つ、平飼いの鶏の有精卵を選びました。仲間たちと話して、こんな田舎町から提供するものだから、安いものを作って大量に売るのではなく、品質と自分たちの心意気だけは一流でいこうと決めたんです。その後に開発した商品にもすべて最高級品を使っています。なにより、そのほうが作っていて楽しいですし、高品質の商品を作るからこそ、素晴らしい生産者さんや取引先のみなさんと出会うことができる。それが喜びなんです。
製品が完成したところで、次は「さぁ、どこで売ろうか」というのが問題です。近所の特産品の販売店に持ち込んだら、最初は断られましたが、なんとか粘って、10袋だけ置いてもらえることになりました。するとその翌日、販売店から「全部売れたのでまた持ってきてほしい」と電話がきました。購入した女性が売り場で「体がぽかぽかに温まった」と話すのを他のお客さんが聞いて、あっという間に売れたそうです。
その店がリニューアオープンしたときには、生産者さんに協力してもらって、店頭販売をしました。生のひげにんにくを天ぷらにして、「臭わないんですよ」「ちょっと食べてみてください」なんて話をして楽しくワーワーやっていたら、当時の佐賀市長さんや部長さんが来られて、これはなんですかと聞かれたので説明しました。
その後、県庁から、佐賀県のネットショップ支援事業に応募しないかと誘われました。「はい」と気軽に応募したものの、蓋を開けてみれば応募したのは錚々たる企業ばかりで恐縮しましたね。審査の場で事業への思いを書くときに、カメラを持った猫が船に乗っているイラストを描いて、「夢は世界だ。今はちっこいけど将来もちっこいぞ。大きくやるのは夢じゃない」と書き添えました。生産者さんやお客様を大切にするために、自分の目の届く範囲でやろうと決めていましたから。最終的に、198社のうちの10社に選ばれたので、県の助成を受けて大手ネットショップに出店することができました。周囲からは相当費用がかかっただろうと言われますが、実際はらく〜に出せちゃったんですよ。私が敬愛する中村天風さんの言葉にあるように、夢を持って楽しくやっていれば、成功は向こうからやってくるというのは、本当なんです。その後、委託販売先は、事業開始から2年間で約300店舗に伸びました。「とにかく楽しく」がモットーなので、遊び半分ならぬ仕事半分でここまできましたが、9年目の今、ようやく数字は後からついてくることを実感できています。
じつは十数年前に、大病が見つかったことがあります。そのときに救われたのが、思想家の中村天風さんと、インドの聖者パラマハンサ・ヨガナンダの教え。一番気に入っているのが、「明日死ぬにしても、今日幸せになって遅くない」の言葉です。幸せは、今この瞬間に元気でいること、笑えること。私はすべてのお客様に、毎回手書きの手紙と、私がかつて外国で買い集めた古切手をプレゼントとして同封しています。手紙は、自作のキャラクター「ニャゴ平」に佐賀弁で語らせて、読んだ人が思わず笑ってなごんでいただけることを想像するのが楽しいんです。私たちのにんにく卵黄玉で元気になるだけでなく、笑顔になってもらえたら一番嬉しいですね。