ダンプカーにはダンプカーの、乗用車には乗用車の役割と適した道があるはずだ。
私は夫婦で会社をしている。毎週会社や仕事のことについて、夫婦でミーティングをするのだが、よく妻から「上から物を言うような言い方はやめて」と言われてしまう。しかし、私は常に「対等」に接しているつもりなので、この議論は十数年経っても解決していない。
これまでにもなにかを言うわけでもなく、なにかをするわけでもなく、人を萎縮させてしまうことがあった。知らない間に人を威圧してしまっているのかもしれないと、できるだけ「対等」に人と接するよう意識をしているつもりだった。
あるとき、細い道路を車で運転していると、前から大きなダンプカーがやってきた。すれ違うことができないのに、ダンプカーは止まる気配がない。それで私は車をできるだけ道路の脇に停めて、ダンプカーをやり過ごそうとした。そのとき、ふと「わが物顔で道路を通って」という言葉を口にしていた。それによって、妻が言い続けていることは「こういうことか」と気がついた。子どものころから、生命としては人間や動物、植物もそれぞれが対等だと感じていた。しかし、現実的には見た目や雰囲気、立場、存在感などの「違い」がそれぞれにある。だから、「対等」というものは、そもそもないのだなと気がついたのだ。
また、思いついたら形にするまでのスピードが早すぎて、「ついていけない」とも妻に言われている。確かに、先日も「こういうものがあればまだ自覚していない疲労感にいち早く気づくことができるんじゃないか」と思いついてから4日で、心拍センサーから脳疲労や自律神経の状態を解析するプログラムを開発、検証し公開した。人に喜んでもらえるアイデアを思いついたら、すぐに形にしたくなる。そういうことも含めて、妻にとって、私は止まる気配のないダンプカーなのだろう。
しかし、相手のために自分を抑えるというのも違う気がしている。それぞれの持つエネルギーや速度、存在の形は違う。だから、それぞれの役割を果たすことができるし、協力できる喜びを感じることができる。
しかし、自身がダンプカーだと気づいても、上から物を言うような癖は簡単には抜けないらしい。あ、そうか。そもそもダンプカーは車高が高いから仕方ないのか(笑)
