質問: 中川さんの発言をウォッチしているNです。 中川さんは「子育てと仕事は根本的に同じ」とおっしゃいますが、その意味を教えて下さい。 |
答え: ストレートに回答しましょう、この2つは全く一緒です。結局、ひとの生き方と仕事、子育ても一緒なのかもしれないと思っています。 この3つに共通する原則は、「他者との関係がすべてであること」「素直であること」「ルールは存在しないこと=柔軟性が問われること」「互いの進化・成長がベースであること」「愛こそすべて」ではないでしょうか。 多くの人が子育てを上手にやり遂げようと思っています。同じように、仕事も上手であろうと努力している人が多いのです。私のように斜めからものごとを見る人にとっては、「上手にしよう」と思っている段階でダメじゃないかと感じています。ビジネスでMBA、子育てで保育士の資格を持っていたら上手にできるでしょうか?答えはNOです。合気道八段の師匠には葛藤はないのでしょうか?答えはやはりNOです。これはどんな世界でもまったく同じことで、達人ほどより多く傷つき、より多く悩み、より多く行動しています。逆にいえば未熟な人ほどうまく立ち回ろうとしますし、うまくしようと思えば思うほど、一定のところで停滞します。 なにを隠そう、私もその一人でした。できるだけうまくいくようにと考えれば考えるほど、うまくいかないものです。うまくいかない原因は自分の資質や能力にあるのではないかと思って落ち込むのです。落ち込んでいると、努力はしたのだけど報われないのは環境のせいだと感じてきます。このステージではときに攻撃的になり、ときに保守的になります。自分も環境も悪いとなると、もう出口がなくなります。すると、自分も環境も疎ましく思えて何ごとにも面倒くさくなってきます。これが無気力の段階です。これは、五木寛之さんも指摘されているように、現代日本の特徴的な傾向なのでしょう。 楽観性が失われると、その周りは大変に窮屈になります。腫れ物にさわるように周りが対応するしかないのです。これが子育てでも仕事でも反映されてきます。この状態での処方箋はなんでしょうか。ポジティブシンキングでしょうか、または「ありがとう」とひたすら唱えることでしょうか。私は違うと思っています。五木寛之さんの著作によれば、それは「深いため息」と「あきらめること」だといいます。深いため息は人間存在の無常を受け入れるため息であり、ときに深呼吸としても作用します。成功法則に毒されてしまうと、ため息は弱気の象徴と感じられますが、実は内外の調和をとるものなのです。力の抜けた「はぁ~」という一息が、実は明日の活力となります。ですから疲れたとき、私は容赦なくため息をつき、また蘇生します。あきらめるとは、「諦める」であると同時に「明らめる」らしいのです。人間は一人で産まれ、また一人で死んでいきます。いつも悩みは尽きず、問題は来るのです。ならば、変な期待はせず、そんなものだと思ってしまおうよということなのです。 仕事も子育ても修行も、そして生きることさえも相似形の長期戦です。うまくやらなくていいのです。とにかく相手とじっと向き合い、大いに感じ、大いに笑い、大いに悲しむことでしか何も生み出しませんし、結局楽しむこともできません。 子育ては自分育てという言葉があります。子どもたちを見ていると、その機敏さや柔軟さ、そして賢さなどに驚愕することがありますよね?子どもは大人より劣った存在という固定観念にとらわれていると見えない無数の素晴らしさが、子どもたちから発せられています。指導し、矯正しないといけない部分にフォーカスすると、躾が必要な不完全な存在にしか見えないことでしょう。もちろん知っておくべきことは大人、子どもに問わずあるのですから、より多くを知っている人は、それをより知らない人に教える必要があります。仕事はこれと同じです。より多くを知っていること、またより得意な、よりよくできる部分を他者に提供することで対価を得たり、喜んでもらったりします。この「よりできること」に貴賎はないのです。よりうまく話すことができないのなら、より多く美しくあることはできます。より上手にできないのなら、より一生懸命することはできます。いくらでもできることがこの世には存在し、それは大人が子どもに教えることができ、大人は子どもから学び、上司が部下に、部下が上司に、企業が顧客に、顧客が企業で働く人のためにできるでしょう。師匠と弟子も全く同じです。世界はそのような支え合いの場所になることを望んでいるのだと思うのです。 |