先日、福島へ行ってきました。夫と息子とスタッフの末武とともに、最高にすばらしい時間を過ごせたことに、お世話になったみなさんに心から感謝をいたします。京都に戻ってからは、二本松でいただいた白ネギづくしのお食事を楽しんでいます。昨日はお鍋にして、今日はグラタンにして楽しみました。本当に甘くておいしいおネギでした。福島滞在中、二キロも体重が増えてしまい「福島はおいしい♪」ということが、身をもって知らされました。
実は、今回伺うにあたって、わたしはずっと悩んでいました。震災後の福島の状況を考えると、その場へ行ってどんな行動をすればいいのか、どんなことばをかければいいのか、まったくわからなかったのです。〝わたしは、何を目的にして行けばいいのだろうか……〟という思いが、思考のすべてになっていました。しかし、出発が近づくにつれて、夫が福島から帰ってくるたびにいっていたことばばかりを思い出すようになりました。それは「福島は、本当に美しいところや。それになんでもおいしいわ。はやく連れて行ってあげたいわ」ということばです。多くの震災での状況を見てきているはずなのに、まずは毎回そこから入るのです。ならば、〝夫がわたしにみせたがっていた福島を味わおう〟という結論に、わたしは導かれていきました。ただひとつの、わたしの中のトゲをのぞいては……。
それは、わたしの中にあるひとつの大きな後悔でした。震災直後に夫がいったひとこと。「大型トラックで、福島に今すぐにいく」を拒否したことでした。原発の事故があり、その影響で支援物資がゆきとどかないと、報道されたときのことです。そのとき、大型免許をもっている夫は、トラックに支援物資を詰め込みとにかく被災地へ向かいたい、「今しなければ」という思いでいっぱいだったはずです。
しかし、原発事故の状況がわからず余震も続いており、いつまた爆発が起こるかわからない中、どうしても夫を送り出すことができませんでした。結局夫が福島の被災地に入ったのは、震災から一ヶ月たった四月。桜の花が咲いてからとなりました。その後、精力的に活動してゆく夫の姿をみながら、〝どうしてわたしはあの時「GO!」といえなかったのだろうか〟と、そのとき困窮していたみなさんに申し訳なくて申し訳なくて、そして恥ずかしくて仕方ありませんでした。
先日相馬市に行ったときに、この思いを吐露しました。「そんなこと気にされなくても、こうやって来てくださっているからうれしいんです」ということばを返していただき、涙してしまいました。後に戻ることはできませんが、「次に何かあったら、いちばんに行くから」という夫を送り出すことがわたしの使命だと心に刻み、ひとつ前へすすめたように思います。
とてもあたり前のことなのですが、福島ではみなさんが日常の生活をおくってらっしゃいます。皆が家に閉じこもっているわけでもなく、うつむいて歩いているわけでもなく、ずっと泣き続けているわけでもなく、深刻な顔ばかりでなく。二本松で農家の方は、プレマ基金で支援した測定器で農地・農作物の状態を逐一確認され、これからの農業に希望を見いだそうとしていました。夫から状況をきいていても「福島産=危ない」という刷り込みがとれずにいましたが、細かく測定され数値を積み上げられているのをみて、それは覆っていきました。
「生産者の顔が見えて放射能測定をしていると、安心して買って食べられるね」と夫にいうと、「それを、見に来ないとダメだ」といわれました。そう、〝消費者は選べるけれど、生産者は選べない〟中で、未来へむけて農作物を作り続けているところへ、いかなければなりません。お会いした小学校の校長先生がおっしゃっていました。「遠くにいて、〝今何が支援物資で必要ですか?〟と聞かれても、何も思い浮かばない。心のケアが必要」と。それは、カウンセラーを派遣するということではなくて、それぞれが他人事としてではなく、心をそわせ福島へいくことが、いちばんの支援になるということではないでしょうか。
今回の福島では、地の物をたくさんいただきました。どれもおいしく、「福島どうでした?」と聞かれればすぐに「おいしかった」と答えていました。まさしく、「福島を味わおう」をまるごと堪能したのです。そして、わたしが「おいしかった」といただいたものすべては、あたり前の日常の中にあった絶望と希望から生み出されたものなのです。
わたしはそれを口にするために、また息子と一緒に福島へいくでしょう。なぜならそれは、とてもおいしいからです。わたしを福島へ連れて行ってくれて、ありがとう。
…「はつき的〝らくなちゅらる〟な生き方」の「続・福島はおいしい」へつづく