答え:
早速、弊社の「プレマ株式会社の宮古島プロジェクト」にご関心をもっていただきましてありがとうございます。まだ記事をお読みでない方は、弊社ホームページ内の検索で「宮古島」と入力していただき、該当のコンテンツをお読みいただければと思います。
さて、ご存じのように宮古島プロジェクトでは、無農薬・無肥料栽培野菜の直接宅配や、宮古島で作ることが可能で安全な加工品販売などを通じて、離島部の新しい農業のありかたについて一石を投じたいと考えています。確かに離島は宮古島(宮古諸島)だけではなく、日本列島には海岸線が100メートルを超える島だけでも6,852島以上存在するそうです。有人離島はそのうち421島(北海道、本州、四国、九州、沖縄本島除く)となっています。その数を知ったときには、『日本は島国である』ということを改めて認識しました。今回、このプロジェクトを宮古島およびその周辺離島に範囲を絞り込んだ理由は実に単純です。そこにご縁があったから、なのです。
Y様がおっしゃるように「平等」に重きを置くのなら、私たちのアクションは間違っているのかもしれません。しかし、何らかのアクションにおいて「平等であること」を私はそれほど重要だと考えていないのです。
震災後、プレマ基金を立ち上げたあとのアクションの絞り込みについても同じでした。今回の3.11大震災における「被災地」とは実に幅広く「被災3県」といういい方で絞り込んだ場合でも、東京はどうするのだ、茨城は……というご批判をいただきました。さらに私がことさらに福島にフォーカスしていることについても、同様のご意見がたくさんありました。宮城、岩手のほうがもっと深刻なのに、というものです。確かに、それもまた事実ですから、そのシビアさを秤にかけること自体はばかられます。震災直前のご縁が福島県下の会社とあったことで、地元のネットワークに入り込みやすかったことに加え、私個人が十代のときから核問題に強い関心があったこと、さらに私の目から見て問題の長期化の可能性が高く感じられたこと……など、すべて「私」と「ご縁」という視点で優先順位を決めたに過ぎず、「平等」を旨として広く浅くという意志にはなりませんでした。当時、日本赤十字社さんが「平等な配分」を意図して情報の収集を待つあまり、行動が遅れたことはご記憶にあろうと思います。何はともあれ優先順位をつけることと、「平等を期すること」を両立するのはとても難しいというのが私の実感です。
最近、社会全体の気運として「平等であること」に対する期待がとても高まっている感じがあります。「同じ」であることと、「個別に事情は違う」ということとは、明らかに矛盾です。ただ「平等にするために検討した結果、○○にしました」ということが教育や政治の世界で免罪符のように用いられたために、本来の平等の意味が歪んでしまったように思います。もちろん、「男女平等」とか「法の下の平等」に異論はありません。そのような大局観と異なって、よく使われる「平等」は個別事情やご縁の強さ、タイミングなどを横において、「とにかくできるだけ同じようにするべきである」という意味に用いられすぎているのではないでしょうか。
個人や会社などの組織には、限られた資源しかありません。その限られたリソースを、どこにどういう順番で振り向けるかということに向かい合ったとき、理由は分からないけれども、直前に何か暗示があったからとか、直感的にそのように思ったからとかという理由があっても良いように思います。国や地方を動かす政治がそれでは困るかもしれませんが、個人や小組織には、この「平等」を強く意識しすぎないことで、よりうまくいくケースもあります。あなたにとって大切な人が誰であるかと同じように、そこには合理的な理由がなくても良いはずの事柄に、無理に理由を付けてしまうことで窮屈になり、何もできなくなってしまうよりは「今すぐできる相手に、今すぐできること」に集中した方が、もっと素敵な関係が作れるかもしれません。これが「あなたが最も大切に思う人を、あなたが大切にできるようにお手伝いしたい」という私たちのミッションの根本原則です。このような関係が連鎖して広がったのが理想的な未来であり、「平等」というレッテルに守られた社会よりも、もっと本質的な平等がもたらさせるように思っているからです。