ニム・ラーさんの地雷事故。これは私にとってとても大きなショックでした。今年のスタディ・ツアーが始まる前の週のことで、スタディ・ツアー中にも事故が起きた地雷原を訪問することになっていました。事故が起きたのは、テラ・ルネッサンスが村落開発支援を2008年から実施しているバッタンバン州カムリエン郡オッチョンボック村。2008年に村の調査をしたときには、まだ村の地雷原の中で家を建てて生活している人たちがいました。2000年代になってから何度となく地雷撤去が行われ、最近では2008年にテラ・ルネッサンスが提携する地雷撤去団体MAGが地雷撤去をして、ようやく人の生活圏内にある地雷が、ほぼ撤去されました。残されていた地雷原もMAGが撤去する予定でしたが、川にかかる橋が壊れており、地雷原にアクセスできず地雷撤去は延期されていました。2011年2月14日から、川に新しいコンクリートの橋がかかり、道も整備されてアクセスできるようになったので、ようやくMAGが地雷撤去を再開していました。
ニム・ラーさんは、実はすでに地雷で脚を失っていた地雷生存者でした。1977年にタケオ州の戦場で、ベトナム軍と、クメール・ルージュの兵士として戦闘をしているときに、2つの地雷を踏み、どちらの地雷も爆発したのです。ラーさんの友達の1人は、その爆発で亡くなりました。事故が起きた後、ラーさんはタケオ州の病院へ送られ、治療を受けましたが、左脚の膝から下を失いました。1978年にバッタンバン州カムリエン郡へ移動し、そこでもまだ兵士を続けていて、前線を支援するための竹の槍を作っていましたが、実際に戦闘をすることはありませんでした。またラーさんは、14歳の時にクメール・ルージュの兵士に自ら志願をした元子ども兵でもありました。こうした話を調査の時に聞いていたので、ラーさんのことは覚えていました。
2011年3月3日午前10時50分。ラーさんは、地雷が残る土地を農地として利用した村人から雇われて、2人の息子と共に農地にある地雷を撤去していました。この村の中では、ラーさんは、地雷撤去ができることで有名でした。ただ正式に撤去のトレーニングを受けたわけではなく、安い金属探知機を使って、地中の金属反応を探知し、兵士の時に地雷を扱ってきた経験と知識を使って、地雷を見つけ、取り除くのです。そこは地雷撤去団体MAGが、数ヶ月後に地雷撤去をする計画があった場所で、その日もMAGはラーさんが撤去していた場所とは反対の東側から地雷撤去をしていました。両者の間には300メートル以上の距離があり、途中に木も生い茂っていることから、MAGはラーさんが地雷撤去をしていることを知りませんでした。この日の朝、ラーさんと2人の息子は、すでに4つの中国製対人地雷、タイプ69と12個の対戦車地雷を見つけ、一箇所にこれらの地雷を積み重ねていました。ただ、対戦車地雷の一つが、地中から取り除くことが難しく、ラーさんは棒で叩くことにしました。「ドゥオーン!」村中に大きな重い音が響き渡りました。叩いた衝撃で対戦車地雷は突然爆発し、ラーさんの体は、はめていた義足の一部だけを残して、跡形もなく吹き飛んでしまったのです。2人の息子はラーさんから、わずか2メートルの所にいましたが、怪我もなく無事でした。
私にとってショックだったのは、この村落開発支援の目的の1つが、地雷事故を防止することだったからです。現地スタッフから最初にこの事故の話を聞いたときには、呆然となりました。もう少し早く地雷撤去が実施できなかったのか? 危険を冒してまで地雷撤去をする必要のないように、村人たちの生活をサポートすることができなかったのか? なかなかラーさんの地雷事故のことは自分の中で整理がつきませんでしたが、今こうして書くことにしたのは、地雷の被害者を単なる数字上の話で決して終わらせてほしくないからです。被害にあった何百人という人たちの一人ひとりにストーリーがあるのです。ラーさんのケースには、地雷事故で亡くなってかわいそうとか、悲惨な事故だったという以上の虚しさを、私は感じています。少年時代は、子ども兵として戦い、2つの地雷を踏み、脚を失いながら、生き延びた先での、地雷撤去中の事故での人生の最期。戦争と地雷に翻弄された人生に、もっと他の道はなかったのかと考えてしまいます。ラーさんの地雷事故と人生を心に留め、これからの平和を創る活動の糧としていきたいと思います。
江角泰(えずみ たい)
江角泰(えずみ たい)氏 NPO法人テラ・ルネッサンスのカンボジア事業担当者。 大学時代に、NGO地雷ゼロ宮崎のメンバーとして参加した「テラ・ルネッサンスのカンボジア・スタディツアー」が、テラルネッサンスとの出会い。 現在は、カンボジアにおける地雷問題に取り組む他、弊社が進めるラオス支援活動も担当中。 NPO法人テラ・ルネッサンス >> Premaラオスプロジェクト >> |