云わぬが花、知らぬが仏。
腹に湧く感情を、瞬時に言葉に置き換えないのは、日本人の「美徳」のひとつかもしれない。見て見ぬ振りが、天才的に上手いのも。だけど、「云わぬが」、「知らぬが」を続けていると、いつか「云えなく」、「知れなく」なるんじゃないだろうか。
フランスに拠点を移して、4年目に突入した。相棒が暮らすフランスの居住権を取得したのは、コロナ禍の2021年。日本が国境を閉じ、移動の自由を脅かされ、やむを得ずの決断だった。
フランス人は、感情が脊髄反射的だ。それこそ感動してしまうほど。ひとまとめにするのは大嫌いだが、敢えて「フランス人」とまとめたくなるほど、彼らの感情や考えは、普段から駄々洩れている。日本では云いたい放題だと揶揄される私も、彼らを観察していると、あまりのことに唖然、呆然。「頭で考えてから、話せないの?」とか、「それを云う?」とか、「原因はあなた自身でしょ?」とか。頭のなかを、ぐるぐる巡る。そしてそこまで感情をさらけ出し、表現して赦されるのだと目が覚めた。「云わない」は選択肢ではない。周囲の空気を読むのも、主流ではない。ましてや空気を読んで意見を曲げるとか、沈黙するとか、あり得ない。いつも我慢していると主張する我が相棒ですら、私にとっては駄々洩れだ(実際、規格外に自己主張しないフランス人だとは思うけれど)。私は「云いたい放題」ではないじゃないか!
気がついたはいいが、腹に抱えた感情は、容易には外に出なかった。まずどう感じているのかが、言葉にならない。悲しい、悔しい。紋切り型の表現は見つかる。だけど、どう悲しいのか、なぜ悲しいのかが掘り起こせない。「なんだこれ」である。幼少期から呼吸をするように周囲の空気を読み、云わないよう我慢し続けて、いつしか感情自体をなかったことにしていたらしい。出さないのではなく、そもそも「感じない」よう抑圧したってこと。怖い!
「云わない」は、選択だ。だから大前提には、「云える」力がある。だけど、言葉を紡ぐ力が未熟なうちから、「謙虚に、沈黙を」と求められると、言語で表現する力は育たない。凄く明確な因果関係だ。「云わない」と「云えない」の間には、恐ろしく深い溝がある。それこそヒマラヤ山脈奥深く、セティ・ゴルジュに匹敵する深い溝が。ということで、現在の私の挑戦は、この溝に光を照らすこと。未踏の地になにがあるのか。楽しみで仕方がない。
プレマシャンティ®開拓チーム
横山・ルセール 奈保(よこやま・るせーるなほ)
日本生まれ、海外育ち。競技者として育ち、 肉体と食、食と精神、精神と肉体の関係を知る。ヨガセラピスト、マクロビオティック&中国伝統医学プラクティショナ―。Albert Einstein、白洲次郎を敬愛。理解あるフランス人パートナーのおかげで、日本に単身赴任中。