(前回からの続き)2歳から15歳まで施設に預けられたペン君は、1年にたった一度だけ会いに来てくれたラオス人の母親に会いに行きます。しかし、その再会は、ペン君の深く閉ざしてしまった心の扉を開くことはありませんでした。そこで社長が次に考えたのは、父親に会いに行くことでした。父は母と離婚した後もずっと日本に住んでいました。日曜日の昼さがり、父の職場のある地方都市の駅前の喫茶店で3人は顔をあわせたのです。
しかし、父に会ってみると、父もまた母と同じようにただ謝るばかりで、20年も日本に住んでいるのに一向に上達しない日本語がペン君の気持ちをさらに沈ませました。会話も弾まず、今回もまた深い沈黙が3人を包んでしまいました。
その若いオーナー社長が経営するホストクラブでは、1年に一度、若い従業員の父兄を呼んで、懇親会のような催しをしていました。自分の子供たちの普段の仕事の様子などを見てもらうことも目的の一つでした。社長は相変わらず心が荒れている様子のペン君に2枚の招待状を渡しました。
しかし、懇親会の当日、ペン君は社員寮から姿を消してしまいます。ごみ箱には、2枚の招待状が捨てられていました。それから1週間ほどして、同僚の男の子に電話が掛かってきました。少しお金を貸してほしい、近くのゲームセンターにいるというペン君からの電話でした。社長がその話を聞きつけ、すぐにゲームセンターに飛んで行きました。ペン君を見つけるなり、思いっきり叱りつけました。そのまま寮に連れて帰り、ペン君はまた社長の元で働くことになります。
しかし、人間不信は相変わらずで、どうしても他人とうまくやっていくことができないままでした。そこで、最後の手段として社長が考えたことは、母と父の故郷ラオスに行ってみることでした。特に具体的なアイデアがあったわけではありません。もしかすると何か彼が変われるきっかけがあるような気がしただけした。
ラオスには母親の両親、つまりペン君のおばあちゃんとおじいちゃんが暮らしていました。この旅行はその2人に会いに行く旅行だったのです。ラオスの空港には、ペン君と社長、そして父親の3人で降り立ちました。1日目は3人で市内の観光スポットなどを船で見て回りました。父親とは相変わらずうまく会話ができませんでしたが、初めて見る両親の故郷の風景に、ペン君は少し優しい気持ちになっていました。そして、2日目、いよいよ母親の実家を訪ねたのです。すでに離婚して縁も切れた父親もなぜか同行していました。
おばあちゃんの家には、近くに住む親戚がみんな集まっていました。そして、おばあちゃんとの対面はペン君の想像をはるかに超えたものでした。おばあちゃんは初めて見るペン君に、「ずっとずっとお前のことを心配していたんだよ」とやさしい笑顔で話しかけたのです。
ペン君はなにも答えることができませんでした。ただとめどなく涙があふれてきて、言葉が出て来ませんでした。世界の何処かに、自分を待っていてくれた人がいる・・・。そのことが心の底から嬉しかったのです。生まれてから今まで一度も味わったことのない感覚が全身を包んでいました。父も隣で泣いていました。誰もかれもが笑顔で涙を流していました。心の中の冷たい塊が溶けだして流れ出していくように涙が流れ続けました。
従兄たちがやってきて話が弾みました。食卓を囲みながら、父も嬉しそうにみんなと大声で笑っていました。ペン君はラオスを去る日に、おばあちゃんにラオス語で手紙を書くよと約束しました。そして日本に帰り、今はラオス語を勉強しているそうです。またいつかおばちゃんと自分を待っていてくれた人たちに会う日のために。
マイナスの状況が強ければ強いほど、その壁を乗り越えた時に人は大きく変わることができます。ただそれは実際には簡単ではありません。それは、自分の中に長らく不在だった何かを見つけ出さなければならないからです。幸いにもペン君はそれを見つけることができましたが、その壁を越えられずにマイナス感情を持ち続ける人が多いのも事実です。
次回は、マイナス感情と「引き寄せの法則」について。
矢吹 三千男
矢吹 三千男氏 生来の虚弱体質で16歳の時に十二指腸潰瘍を患い、ヨガと占いにはまる。二十歳の時には身長が175センチで体重は50キロ。いつも複数の薬を持ち歩く。様々な健康法を実践するもほとんど効果なく、ようやく食養生で体質改善に成功したのは30代も半ばを過ぎていた。その時、生まれて初めて「健康」を実感する。製薬会社勤務などを経て、その後バッチフラワーに出会い、現在(株)プルナマインターナショナル代表。 著書『感情のレッスン』文芸社刊 |
こころと感情を癒す花のメッセージ「バッチフラワーレメディー」 イギリスで70年以上の伝統がある花の療法です。依存性や習慣性もなく、世界60数カ国で多くの人々に愛され続けています。 バッチフラワーレメディーの詳細はこちら>> |