弊社の会社としてのキャッチコピーは「ほんとうの時代が始まる前に。まじめに、さらにユニークに。『ココ・カラ・いのち』のプレマ株式会社」というものです。2004年頃から、名刺にも、ウェブサイトにもこのメッセージをたくさん掲載してきました。お客様からいただくご質問やお手紙には「ほんとうの時代とは何ですか?」というご質問もたびたび目にしてきました。
私の印象では、いよいよその「ほんとうの時代」の、産みの苦しみの時期に入ってきたような気がしています。昨年の2月、我が家には「慶音(けいと)」という男の子が産まれ、そして私自身は紆余曲折を経て、その直後に頚椎の手術を受けることになりました。食事をコントロールしてきた自然出産を観察していると、それは激しい痛みを伴うものですが、波のように徐々に痛みが行ったり来たりと強度を増しながら続き、ある一定のところまで来ると母となる人に魂の底から覚悟が沸き上がるのか、まさに産み出すことのために「いきみ」が始まり一気に進展して、赤ちゃんがやってきます。
その破水が2008年、定期的な陣痛開始が2009年のように感じられます。逆から見れば、いままでは「嘘の時代」のように感じるのです。人間は全てを認知し、コントロール出来るという共同錯覚の中でこの数十年を生きてきました。果てにはお金は計算から産み出そうとバーチャルの極にまでたどり着き、そして錯覚であるが故に崩壊していきます。いずれも「部分を研究すれば、全体にたどり着く」という思考が、根っこにあるのではないでしょうか。
実は、私たちは全体の中で生かされています。そのことを改めて思い出していくプロセスは今始まったばかりなのかも知れませんが、相当な痛みの波を受け続けることになるのでしょう。そして、私たちは日本人やアジア人が魂の底に持ち続けているはずの「全体の中の自分と、自分は全体につながっている」ということを改めて確認していくことになるのだと思います。
手術を受けて解ったことは、私は「部分の集まり」であると同時に、「全体が部分を作っている」ということでした。あたりまえのことに聞こえるのですが、現状の医学も科学一般でも、全体とは何かと言うことを考察していないように感じるのです。以前このようなことを私が書いたとき、「中川さんは科学をご存じないのですね」というお叱りがありました。私は科学とはなんたるやを知らないからこそ、全体から考える習慣がつきました。学問に触れることなく生きてこられたことが、今からの激動の時代を生きる糧になるとは、因果なことだと思います。
科学を知らない私は、この数年で耕作出来る土地を買いました。種を蒔き、お世話をすることで食糧を造り出せるのは人間の力ではなく、大自然の原理そのものから来ているだろう、それはしばらくお金で交換出来なくなるかも知れない。そして私の命はこれなくして生きながらえることはないだろうという直感からのことだったのです。今度のお産はいつものように偉大であり、かつ激しそうだからと、非科学的に閃いた結果としてのことでした。