他人に頼ったり、身を委ねたりするほうが、
実は勇気がいるのかも?
標高2500mにある山小屋に2ヶ月半ほど住んでいたことがある。福島の震災後、原発がないと生活できないという話があった。本当にそうなのかを確かめたくて、電気を使わない生活をしていたときに、もっと不便なところで生活してみようと思ったのだ。
山小屋に行くには、山道を8時間登っていく必要がある。それは散策路どころか、岩場の鎖をよじ登るような険しい道だ。標高2000m以上は森林限界で高い木が生えない。登っているときに、漫画でしか見ないような、縦横無尽に電気が走っている雷雲が向かって来ていた。周りには私以外に雷が落ちるものがないので、あのときは生きた心地がしなかった。
山小屋では、雨水以外のインフラがなく、物資は山の下からヘリコプターで持ってくる必要がある。あるとき、そのヘリコプターに乗せてもらった。死ぬ思いをして到達する山小屋まで、たった10分で到着。驚きを超えて信じられなかった。ちなみに岩場のためヘリコプターは着陸できない。揺れる機体のなか、人はタイミングを見て1mくらいの高さから身を投げ出す形になる。
30代までは、目標を決めて、そこへ向かうプロセスを考え、自分の力だけでなにかを成し遂げようと必死になっていたように思う。自身が良いと思う世界へ向かっていく反骨精神みたいなものが強かった。だけど、40代後半になった今は、8時間かけて自身の力で目標の山小屋へ向かうのではなく、できればヘリコプターに乗りたい。
それにヘリコプターに乗るのは楽ではない。次の大きなチャレンジがある。それは降りるときに、周りの環境を信頼して身を投げ出す必要があることだ。一度身を投げ出したら、自身ではどうにもできない。事前にどう着地するか計画しても、風が吹けば役に立たない。着地する瞬間にどうすれば最善かを判断して決めるしかないのだ。
なにかをやろうとしすぎず、脱力して待つ。風が吹けば身を委ねてみる。そのなかで、そのときその場所で自身にできることを見つけていくのが、今は楽しみになっている。ちなみに、山小屋での2ヶ月半、妻は私と連絡が取れなかった。一番、「環境を信頼して身を委ねる覚悟」を強いられていたのは、下界で待つ妻だったと思う。
