きのくに子どもの村通信より 自由学校の気になる子ども(3)
学校法人きのくに子どもの村学園 〒911-0003 福井県勝山市北谷町河合5-3 |
ひとクラスに二、三人 ?
ここ数年、教育界では子どもたちの新しい障害が話題になっている。学習障害、ADHD、高機能自閉症、広汎性発達障害などだ。こういう子は意外に多くて、5~7パーセントくらいいるという。四十人学級なら二人か三人いることになる。文部科学省は、「特別支援体制」を組もうとしているようだが、自治体の取り組みはあまり進んでいない。私たち学園では、程度の差はあれ、こういう傾向を示す子、特に学習障害とADHDの特長のある子に、どのように対応したらよいだろうか。
学習障害
もとは読み書き算の力の獲得の困難に限定されていた。現在では、聞く、話す、推論する、さらに運動や、社会性の困難も含められる。つまり教室での学習だけでなく、コミュニケーションや人間関係でも障害がある子や、さらに次のADHDと同じような傾向を示す子も少なくない。
ADHD
「注意欠陥多動性障害」の略。注意力が持続しない。衝動的に行動する。神経質、落ち着かない。言動が混乱するといった様子が見られる。その結果、社会的活動、対人関係、学習面でも支障が出る。学習障害と重複する特徴が多く、「LDプラスADHD」と診断される子が少なくない。たいていは七歳以前に現れ、男の子の方が数倍多い。医師は、リタリンなどのクスリを処方することがある。
高機能自閉症
自閉症の特徴のうち、知的能力には問題のない場合をいう。人間関係をきずきにくく、興味や関心が狭く限られ、また常同的な行動が見られる。アスペルガー症候群と呼ばれることもある。
これらの障害の原因はわかっていない。中枢神経系の機能に何か障害があると推測されている。つまり知的なハンディとは違う。情緒障害でもない。家庭教育や、環境が原因なのでもない。ましてや本人の心がけのせいではない。親の育て方が悪いからでもない。本人はもちろん、親に対しても軽はずみな批判をしてはいけない。かつて自閉症の子を持つ母親の中には、夫からさえ「お前の育て方が悪い」と責められた人がいた。的外れな非難をつつしもう。
ADHDは現代的な障害だという説がある。しかし原因が中枢神経系の機能不全なら、どの時代にも存在しただろう。しかし現代は、そういう子にとって生きにくい時代だといえるかもしれない。
隔離か「共に生きる」か
たいていの学校には、学習障害者やADHDの子がいる。私たちの学園にも、少数だが、こういう傾向のある子が今も何人かいる。医師からクスリを処方された子もある。(ただし入学後は服用していない。)
こういう子への私たちの基本方針は次のとおりだ。
?クスリを使わない。
?隔離しない。
?特別な療法や訓練に頼らない。
ひとことでいえば、私たちの学校の理念を徹底しようというのである。
クスリの使用
ADHDの子のには、リタリンやデプロメールがよく使われる。リタリンは抗鬱剤として広く用いられている。多動の子は余計に落ち着かないのではと思われるが、脳内活性化物質をふやし、前頭葉のはたらきを高めて集中力を持続させるという。大きな副作用はないらしいが、クスリが切れると行動が元に戻る。一時的におとなしくなるので、教師には都合はよいが、根本的な治療とはいえない。
特殊な学校
ADHDの子の学校を作る動きがある。いわゆる特区構想に乗って開校の準備が進んでいる。カリキュラムを工夫して特殊な指導や訓練もする。しかし、ほかの子どもたちの世界から切り離されるのは不自然だ。「ともに育つ」をモットーとする私たちの方針からは程遠い。
クリニック
アメリカなどでは、ADHDの子のための特殊な訓練プログラムが多く考案されている。日本へも紹介されているようだ。私たちは、そのような工夫を過小評価するつもりはない。しかし週一回の病院通いや、特殊な心理療法は、あくまでも補助手段にすべきだと思う。
治療よりも自由な教育
ADHDの子、あるいは社会的生活に困難のある子にとって、最も大切なのは何か。それは、こういう子だからこそ社会的生活の方法や人間関係の術(すべ)を学習することだ。クスリで抑えたり、隔離したりしたのでは、この学習はできない。
私たちの考えはこうだ。
ほかの子との社会的生活こそが、いちばん大事な学習の機会だ。だからトラブルが絶えなくても隔離しない。クスリもつかわない。罰も与えない。日頃の方針を徹底する。
これは、本人にとっても、まわりの子にとっても、そして大人にとっても、けっして平坦な道ではない。いろいろな工夫が必要だ。達成感のある活動と学習、辛抱強くて肯定的な空気のある集団、信頼できる大人、お説教よりも気付き、自由なミーティング、子ども集団の治療能力の活用、親への共感と激励・・・・・。学園への見学者で、こういう子のかつての様子を知る人は、一様にその変化に目をみはる。なにしろ目立たなくなるのだ。そのうちの何人かの子がいった。
「ぼくにはここしかない・・・」
「もうどこにも行かない」
大事なのは、生活環境全体が、彼らの傷ついた心をいやし、いつしか素敵な人間関係の学習ができるような学校の存在である。そして、こういう学校では、本人も、まわりの子も、大人もみなそれぞれに成長するのだ。