きのくに子どもの村通信より
学校法人きのくに子どもの村学園 〒911-0003 福井県勝山市北谷町河合5-3 |
完全性を追求する人は、いつも鋭い挫折感に悩む。……理想を形成する傾向こそは、かのアダムの呪いなのだ。(A.S.ニイル『問題の子ども』1926)
理想の高い人おことわり
子どもの村への見学者からよく出る質問。
「子どもも元気ですが、先生たちも素晴らしい。どのようにして集めるのですか」
「集めません。あつまってくれるのです」
「どんな人が集まるのですか」
学園の採用条件は5つだ。
1・粗衣粗食に耐える。
2・教員免許と普通免許がある。
3・伴侶または決まった人がいる(守られていない!)。
4・お酒の飲める人。お酒の雰囲気がきらいでない人。
ここで、たいがいの人はホッとして笑う。しかし、次に移ると「えっ」という顔になる。
5・理想の高くない人。
学園には、理想に燃えその実現に邁進している大人はいない。完成された教師ではないし、それをめざしてもいない(そういう人は採用されない)。百点満点の教師があるとすれば、30点か40点から始めれば十分だ。80点か90点に到達した人より、少しづつ子どもの相手が上手くなり、知識や経験がゆたかになる人、そして成長する自分自身を実感している人がよろしい。デューイのいう「成長した人より成長しつつある人」だ。
高すぎる理想が自己否定感を
理想にこだわる人はなぜ困るか。理想にとらわれ、完全性にしばられて、失敗感や挫折感に悩み、自己肯定感が低いからだ。失敗感や挫折感に悩む人は、子どもには高すぎる理想を押し付けやすい。そしてそれに気がつかない。
「がんばれば何でもできる」
親や教師は平気でこんなウソをつく。こういわれて「がんばるぞ」とハッスルする子がどれだけいるだろうか。
子どもたちは、達成できそうもない目標を設定され、失敗感、挫折感、自己嫌悪感に苦しみ、程度の差はあれ自己憎悪におちいっていく。運よく目標に到達できると、いっそう高い目標へと際限なく駆り立てられる。
「これで満足してはいけない」
「もうひとがんばり」
がんばってもがんばってもキリがない。
最もよい教師は子どもと共に笑う。最も悪い教師は子どもを笑う。(ニイル)
子どもを笑う教師は、高すぎる理想を子どもに押し付け、子どもを責め、自分自身をも責める。そしてどちらも不幸になる。
しかし子どもと共に笑う教師は、高い理想にとらわれない。ゆっくり、じっくり共に成長する。それはとても嬉しいことだ。自然に笑えてくる。子どもを高尚な理想に向けて押したりひっぱったりしない。子どもと成長を共にする喜び、これこそが幸福な教師の報酬なのだ。
理想を押し付ける教師は「今のままではダメ」というのが口癖になっている。彼のメッセージはいつも否定的なことばで送られる。
「そんなことではダメ」
「がんばらないといけない」
「大人になってから困るよ」
「いつになったら……」
子どもたちとともにあゆむ
いっぽう、子どもと共に笑う教師は、肯定的なメッセージを伝える。子どもの行為、ことば、仕事の出来栄えなどをプラスの方向から見る。
「昨日より上手になったね」
「最悪のケースは免れたな」
「前よりいい線いっているぞ…」
さらに、
「背が伸びたんとちがう?」
「いい天気だねえ、今日は。」
こういう人は何事にも肯定的で楽天的だ。小雨が降れば「たいした雨じゃない」、土砂降りなら「どうせ降るならこの方が気持ちがいい」という。自分を笑う場合もその笑い方は肯定的だ。
「なんて間抜けなんだ、私は」といって「アハハ……」と笑う。ニイルは、このように自分を受容して笑える人をユーモアのある人と呼ぶ。
しかし子どもを笑う人は自分を笑えない。不完全な自分を受け入れられないからだ。そしてそれを子どもに気づかれるのを恐れる。気付かれると傷つく。だから教師としての威厳を大事にしないではいられない。
ニイルは、最もよい教員選考基準は「子どもからバカといわれたら、どう思うか」という質問だという。ムカッとする人は、自由学校には向かない。
「同行二人」ということばがある。「どうぎょうににん」と読む。四国八十八か所巡りの巡礼が「お大師様(弘法大師)」と共に歩むという意味だ。笠などに書き付けられる。お大師様ならぬ「子ども様」と共に歩む喜びも深くて大きい。