当たり前のこと
学生スポーツ選手と関わるときに尋ねることがあります。上手くなりたいのか、強くなりたいのか。
上手くなりたければ練習するしかない。人が休んでいる間も、自分はやり続ける。そうして自分の頭で思い描いた通りに、体が動くところまで技術をとことん磨いていくしかありません。
では、強くなりたければどうでしょうか。これは、当たり前のことを当たり前にすること。治療院での出会いでいえば、挨拶に始まり、日常の動作にも気を配り、最後はスリッパを揃えてから出ていく。こうした当たり前のことができていなければ、強くはなれないよ、と注意します。できて当たり前のことも沁みついていないのに、本番でミスをしないなんてことはあり得ません。
挨拶のお辞儀やスリッパを揃えるために屈むことなどは、身体を前後に曲げる動作。こうした小さな動作の積み重ねが、身体の体幹をつくっていくことにもなります。体幹ができていないと、ちょっとした不注意でケガをしてしまうことにもなりかねません。
知っている、理解している、できる、できている。これらはまったく異なります。理解していることを「できている」という当たり前のレベルにまで積み重ねてきているからこそ、緊張する本番でも発揮することができる。当たり前のない強さはないでしょう。どんなに大きな業績も、当たり前の日常とは地続きで繋がっています。
脚下照顧
昨年逝去されたミスターラグビーこと平尾誠二さんは、試合開始前に整列したとき、相手チームのスパイクを見て勝利を確信することがあったと言います。どれだけ経験を積んできても大事な試合前は、気持ちが昂って寝られない。仕方ないので起き上がってスパイクを磨きながら、翌日の作戦を練る。相手の予想外のことをどのタイミングで仕掛けるか、そんなことを考え始めると楽しくなってきてますます寝られなくなったこともあったようです。他方、相手チームが汚れたままのスパイクで整列していれば、これはノープランで臨んできたということ。ならば今日の自分たちはやりたい放題だと。試合の始まる前にすでに勝利を確信しているのですから、ミスをすることもなく日々の成果を出し切れるでしょう。
禅では「脚下照顧」といって、自分の足元をしっかり見ることが大切であると説かれます。いまの自分の置かれている状況を見極め、やるべきことに精一杯の力を尽くすということです。所作でも、足をきっちりと揃えて立っている姿勢からは、気持ちを引き締めていることが伝わってきます。 「足元を見る」とは、かつては金融業者がお金を借りに来た人の履物を見て、信用できるか、お金を貸してもよいかを判断していたということ。先ほどの平尾さんは、相手チームを値踏みしていたともいえますね。
反発力を活かす
昨今、コーチや指導者にクレームをつけるモンスターペアレンツが目立つと聞きます。親の立場からすれば、つい口出しをしたくなる気持ちもわかります。しかし、それは親の枠のなかでしか考えられていないこともあるようです。親が自分の枠から子がはみ出すことを認められなければ、子は、その枠の中でしか成長していけません。どこまでも子が親を超えられないのは当然のことと言えます。
障害物を超えるときには、地面を蹴ってジャンプします。そのとき地面は、反発力を持っています。例えば、水たまりやぬかるんだところだと、どんなに頑張って跳び上がろうとしても、足を取られて高く遠くへは跳べません。硬い地面だと反発力が大きいので、跳び上がれます。
ぬかるんでいても、小さな障害なら超えられます。でも大きな障害に向かうときには、地面の反発力を活かさないと超えることはできません。大人の役割として、子どもが遠くへ飛ぼうとしているとき、ときには硬い地面になって反発を返してあげることも必要かもしれませんね。
圭鍼灸院 院長 鍼灸師
マクロビオティック・カウンセラー
西下 圭一(にしした けいいち)
新生児から高齢者まで、整形外科から内科まで。
年齢や症状を問わないオールラウンドな治療スタイルは「駆け込み寺」と称され医療関係者やセラピストも多数来院。
自身も生涯現役を目指すアスリートで動作解析・運動指導に定評がありプロ選手やトップアスリートに支持されている。
兵庫県明石市大久保町福田2-1-18サングリーン大久保1F
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