前回の「赤ちゃんとの音コミュニケーション」の続編です。
人は人生の最後に体を脱ぎ旅立つ。
その旅立ちの音コミュニケーションのお話。
約10年前、私の父が旅立つときのエピソードです。
父は若いころから糖尿病を患い、晩年はパーキンソン病を発症し、自宅介護の闘病生活。
毎日、痛みを訴える父を少しでも楽にしてあげたくて、さまざまな療法や物にも出合い、見えないことにも気づかされていきました。
新薬の作用で幻覚症状と錯乱を起こし、母に殺される!とご近所に駆け込んだり、車をバックして壁に突っ込んでしまったり、いろいろなことがありました。
そのうち薬をまったく受けつけなくなり、寝たきりになりました。
足の指先の壊死も始まり、患部を清浄で柔らかな竹布で包み、グレープフルーツの香りで空間を緩和させ、さまざまな波動機器でセラピーを施すなど、あらゆるケアを実践しました。
「痛い、苦しい」と何時間もさすって欲しがる父。
それがある日、突然、「俺はもういいんだ」と言って苦しみを訴えなくなりました。
不思議ですが、その少し前に波動機も正確に壊死した両足を画面上に映し出し、何ヶ月と寿命を教えてきていたので、そういう心づもりで父と残された日々を大切に過ごしましょうと母と話をして、できるだけ穏やかな家族の時間を過ごして旅立ちの朝を迎えました。
父と音でつながる
母の姉から早朝に、父が枕元に来たと電話があり、慌てた母が父の部屋に入ると、すでに痙攣が始まり、血圧も下がった状態でした。
前の晩、群馬から実家に戻ってきていた私は、父の枕元に寄り、さすりながら「お父さん、大丈夫よ、扉を開けるだけだから怖くないよ」と話しかけました。
父は酸欠で呼吸も荒く、目もあちらこちら行き来している状態でしたが、ふと、私は今歌うべきだと感じました。
父に歌うことを告げて、アメージンググレースを感じたまま替え歌で歌い始めました。
涙で目をつぶりながら歌っていたのですが、3番くらいで目を開けると、呼吸穏やかに、ジッと私を見つめ歌を聞いている父と目が合いました。
最後のフレーズを歌い終わると同時に、笑うように大きく口を開け、旅立ちの瞬間を迎えた父。
部屋の天井が眩しく輝き、息子たちが産まれたときと同じだと気づきました。
「人は生まれるときも死ぬときも光と共にある」とわかった瞬間でした。
毎日苦しんだ闘病生活の最後の見事さに、私は「お父さんを尊敬する!愛してるよ!」と何度も語りかけました。
まるで段取りしていたかのようにセレモニーの歌と共に逝く、旅立ちのシーンまで完璧な父。
私が逝くときは、こんなに見事にできるだろうか。
この「命の最後の音コミュニケーション」は、私に歌うことの深い意味を教えてくれました。
父を通して出合えた波動機は、その後、母とたくさんの方のセラピーや、音楽教室で役立ってきました。
その実践も実を結び、バイオフォトンの有賀雅高さんと共に、循環しバランスを整えることの大切さや、気づきをどう響かせることができるのかなどを伝える「自己調律」のプロジェクトが始まっています。
音楽家の私にとって周波数(振動)を出す機械たちは、ピアノのような音を出さないだけで楽器です。
そして、その操作も音楽的感性技術とも比例することがわかりました。
本来音楽は、感情や心、意識、ハーモニー、メロディ、言葉などと融合一体化して奏でるのは当然のことですが、それらの周波数(音)が洗練されたものであればあるほど、人々に浸透し、深い気づきや癒しをもたらすものです。
そんな音を出せるよう、私自身、これからも自己研鑽し続けたいと思います。
暗算で全国1位、そろばんも全国2位の「努力の神童」と言われた実父が導き教えてくれた音の真髄は、今も私の音の世界に生き続けています。