両足首に異常な骨の変形が見られた患者さんがいた。その方は社交ダンスに夢中になっていたそうだ。検査すると明らかな異常が確認された。しかし、検査で異常を確認したとしても、単にその部位を手術で取ってしまえば済むという話ではない。なぜなら、すんなりと治療に結びつきにくい場合もあるからだ。その方は、私の漢方外来を受診するまでに、さまざまな整形外科を受診し鎮痛剤を処方され、再生医療も試されたようだ。しかし、これらの努力にもかかわらず、痛みが消えず、日常生活が困難になっていた。
私がその方と初めてお会いしたとき、「大好きな社交ダンスを、すぐにでも再開したい」と話していた。しかし、私は同時に足首の状況が簡単に治癒する状態にないことを受け入れることへの恐怖のような、認めたくない抵抗感のようなものを感じたのである。誰でも自分が病気であることは認めたくないものだ。なにかしらの症状で困っていても、「きっとなんとかなるんじゃないか」と淡い期待を抱くことは、至極自然である気がする。しかし、西洋医学では痛みを抑えるための対処療法しか示されておらず、根本的にはどうすることもできない絶望感を感じるような状況であった。困難な状況を支える医療に巡り合えていない現状と、変形した足首の状態を見ると、残念ながら社交ダンスどころではないだろうと思ったが、「できることはないか」と、足首の炎症と浮腫を少しでも減らすために、漢方治療と鍼灸治療を開始した。しかし、一度変形した骨が元に戻ることはない、というのは明らかな事実であった。身体のどこかが変形すると、なんらかの外科的な処置が必要になる場合が多い。
私はモヤモヤしながら、足首に特化した整形外科医がいないかと探してみたが、ホームページの情報だけでは、私としても判断が難しかった。そこで、医師の友人に相談したところ、専門とする医師に辿り着くことができた。ネット上には数多くの情報があるが、本当に困っている人が必要とする情報に辿り着くのは、至難の業なのかもしれない。やはり人の縁が最後の頼みの綱でもあると感じた。
そして、モヤモヤしながらも諦めないことや、困っている今を真っ直ぐに受け入れること。これらが少しでも楽になるための、小さな希望に繋がるのではないだろうか。
日々の診療では、困っている患者さんが、少しでも楽になるために必要と考えられる道筋をできるだけわかりやすく言葉にしようと努めている。しかし、それでも力不足もあるので、思うように伝えきれないもどかしさから、悩むこともある。
目に見えない心を扱う精神科を除く医療での指標は、主に目に見えるものが中心である。血液検査や尿検査、心電図、レントゲン、CT、MRIなどで、医師も患者も同じ検査結果を見て、「異常はこれだ」と確認する。しかし、そんな西洋医学にも、今回のように、治療の道筋が見えにくい場合もあるのだ。症状があるのに検査結果が指標にならず評価できないとき、患者は困難の原因がなんなのかを理解できずに、途方に暮れてしまうのではないかと思う。漢方を中心とした医療をしていると、途方に暮れてしまった患者さんに出会うことが多い。
あるとき、僻地で診療をする医師を育てている友人から、「石井先生は都心にいながら、行き場のなくなった人にとっての、僻地医療のような役割をしていますね」と言ってもらったことがある。僻地に住む人々にとって目の前の医者が最初の頼みの綱であり、最後の砦でもある。僻地の意味合いは違うが、砦の医療という意味では、困り果てた方と縁が繋がり、なにかしらの協力ができることが、私が目指してきた医療であったということを、その友人に思い出させてもらったような気がした。