前号では、ベンジャミン・リベットやジョン=ディラン・ヘインズらの実験により、私たちが意図を「意識する」より先に、脳は行動を準備していることをお伝えしました。つまり私たちは「決めてから意識する」のではなく、「脳が決めたあとに意識が理由付けをしている」可能性が高いということです。自由意志とは、どうやら行動の結果に後付けの意味を与えるメカニズムのことのようです。
科学が示す「意識」の限界
それでも、現在の世界は「人間には強い自由意志がある」ということが前提となっていますし、限定はされますが間違いではありません。脳は単一の指令塔ではなく、異なる役割を持つ複数のシステムが協調し競合する複雑なネットワークです。感覚、身体感覚、情動、習慣、社会的評価、論理思考などが同時に作動しています。それぞれの部分は意識にデータを渡す前に、相当に要約してしまいます。前号でお話ししたように視界には鼻が常に映っているにもかかわらず、私たちはその存在を無視しています。それは目に入ったデータがそのまま意識に渡されているわけではないことを示しています。
行動の決定も意思とは違うところで決定されています。そのうえで意識が「自分」という主人公を位置づけ、行動の理由を語るようにできています。
さて、意識は脳の中で最も新しく進化した機能です。生物の進化を思い起こしてください。高等生物といわれる段階になり、ようやく意識は出てきたのです。意識は「私」を認識し、自己を主人公とするエピソード記憶を扱えるようにするために生まれました。体験を物語として保存することは、生存や社会的協力に圧倒的な有利性をもたらしました。
ところがこの意識は、自分とは意識である、と錯覚するようになりました。社会もそのように考えています。実際には、行動の多くは環境、無意識、習慣、身体状態によって決定されています。ここからわかることは、「やる気」や「意志力」といった意識の力に頼って行動を促すよりも、「置かれた状況」、すなわち環境を変化させるほうが行動しやすい、ということです。たとえば、早起きしたいと思っていても、寝室にスマートフォンを置いたまま寝ると、多くの人は夜遅くまで動画やSNSを眺めてしまいます。しかし、スマホを別の部屋に置いて寝るだけで、睡眠習慣は驚くほど改善します。意識がどれほど理屈を述べても、行動を決めるのは別の層なのです。この事実は、現代を生きる私たちにとって非常に重要です。
意志力よりも環境を設計する
自由意志が幻想なら、人間に希望は残るのでしょうか。多くの学者も当然、同じことを考えました。その結果、行動が意志ではなく仕組みと条件によって変わるのなら、私たちがすべきことは自分や他人に「なぜそんなことをしたんだ」と責めることではなく、「環境と条件を設計する」ことのほうが効果的であるということに気づいたのです。意思ではなく、設計。努力ではなく、仕組みです。最近、行動経済学という分野が「ナッジ理論」と呼ばれる、行動を促す環境を提示する考え方を示しています。ナッジの定義の一部に「ナッジは命令ではない。果物を目の高さに置くことはナッジである。ジャンクフードを禁止することはナッジではない」とあります。この例から、ナッジがどういうものかおわかりいただけるでしょう。
人間の意思は完全には自由ではないということは知ってください。あなたの生き方がラクになるはずです。意思の限界を理解し、行動を生み出す構造を自ら整えることはできます。自由意志が錯覚であるとしても、私たちにはまだ自由があります。
それは「自分をよりよく動かす仕組みを理解し、設計する自由」です。
