あるお母さんが、お子さんの診察の帰り際に「先生、私って悪い母親ですよね」とつぶやかれました。子どもにイライラして叱ってしまったことを悔いておられたのです。そのお母さんに「この世界には本当の意味で、善いも悪いもないんですよ」とお伝えしました。少し意外に聞こえるかもしれませんが、これは単なる慰めではありません。
私たちはなにかを「善」と呼ぶとき、その反対側に「悪」を同時に生み出しています。たとえば人のために尽くすのは善いこと、と考えがちですが、だれかのために無理をしすぎて自分が倒れてしまったらどうでしょう。それは本当に善いことといえるでしょうか。善悪とは状況や立場によっていくらでも変わる相対的なものです。絶対的な基準など、どこにも存在しません。
確かにルール(法律や常識)はあります。犯罪を犯せば罰則が伴いますが、それは自由な思考や行動の結果に対して、社会的な責任が課せられるということです。本来、思考も行動もすべて自由なはずです。ただし、その結果の責任は自分で引き受ける必要があります。
自然や動物には善悪はありません。嵐が吹き荒れるのも、動物たちが弱肉強食であることも、ただ「起きることが起きている」だけです。雨や嵐を「天気が悪い」というのは、人間の都合にすぎません。テレビでシマウマがライオンに食べられる場面を見ると可哀想に思いますが、そのおかげでライオンの子どもが生き延びるというストーリーがあるとわかった瞬間、「よかった」と感じる。人間の価値観とは、実に身勝手なものです。
怒り、悲しみ、迷い、それらも悪ではありません。心がバランスを取り戻そうとする自然な反応です。だから、自分を責める必要はないのです。
「また失敗した」「あんなことを言うべきじゃなかった」と自分を裁けば、心も体も緊張します。自律神経の交感神経が興奮して「戦うか、逃げるかのモード」に入り、その状態が継続すると体の回復力が落ちていきます。善悪という物差しの外に出ることができたら、交感神経の興奮は減少し、リラックスした状態をキープできるようになります。
興味深いのは、善悪の基準がゆるむと、他人への評価もやわらぐことです。他人を責めたくなるとき、実は自分のなかに「〜であるべき」「~でなければならない」という強いこだわりがあります。それを自分に課しているからこそ、他人にも当てはめてしまいます。「私はこんなにがんばっている(がんばってきた)のに、なぜあなたはそうしないの!?」という怒りが湧いてくるのです。
善悪の基準を手放したとき、他人の行動が「間違い」ではなく「その人のプロセス」だとわかります。怒りではなく理解、批判ではなく共感が生まれます。結果として、心は穏やかになります。
もちろん、イライラを完全になくすことはできません。診察では「イライラしたらちゃんと表現しましょう」とお話ししています。心が煮えくり返っているのに満面の笑顔を作ると、子どもは混乱します。心では母が怒っていると感じるのに、表情や態度が真逆だからです。作り笑顔は子どもには通じません。心からの笑顔になれないときは、感じているイライラを正直に伝えたほうがまだ健全です。
私たちはつい「正しい生き方」を探そうとします。けれど、正しいという言葉には、いつも間違いという影がくっついてきます。その探求に疲れたら、少し立ち止まって、こう心のなかで唱えてみてください。「世界はただ在る、私は悪くない」と。
自分を裁くことをやめたとき、世界の見え方が変わります。そこには正しい私も間違った私もいません。あるのはただ、いのちの輝きだけです。
