早いものですでに3月を迎えました。弊社は2月に創業14年目の春を迎え、人間に例えるならもう少しで中学校卒業、というところまでやってきました。いよいよ進路を考えるべきとき、というタイミングですが、「見かけによらず、この子はけっこう野心的だなぁ」とお思いになるような話をさせていただきます。
創業から4年間くらいは、会社で行うすべてのこと、すべての商品が私の目の前で進んでいました。最初は小さな市営住宅の1室から始めましたので、それこそ商品の横で寝、横で生活し、横で働くという暮らしでした。今考えれば、生活臭が染みこんでいそうな品々を販売していたとは赤面しそうでお叱りも受けそうですが、我が子のアトピー性皮膚炎をきれいに治していった実績があるにもかかわらず、まったく無名の品を、私の話を信じて買ってくださるお客様に「どうか、効果がありますように」と祈りながら包み、手渡しできた当時は、とても贅沢な時間でもありました。台所では数日煮込んだ玄米がさらにゆったり湯気をあげ、愛しい我が子を膝に抱きながら、それこそ30平米少しの部屋には祈りが満ちていました。おかげさまで、そのようにしているとお届けした品物がよい働きをし、実際に効果が出ましたので、私のところには徐々に電話が増え、気がつけば携帯電話を離せない生活になっていました。最初はサラリーマンとして薬屋の相談員をやりながらという状態で、そちらも口コミで続々お電話やご来店をいただいていましたので、昼夜を問わず誰かを励まし、アドバイスする生活でした。とてもやりがいがあり、充実もしていたのですが、昼間の仕事で、弱っている方に数十万円のとても高いものを売るのに疲弊したこともあって、独立。会社としての創業地となる京都太秦にやってきて、本格的に通販をスタートさせました。当然、ウェブを作るのも、メールや電話にお答えするのも、出荷するのも私自身、もしくは私の目の前の出来事です。
交換という魔法
世の中には隠れたる優れた品と、それを必要としている人がどこかにいます。それをつなぎ合わせるのに、インターネットというツールはもってこいの存在でした。2004年くらいまではそのような美談で語ることもできたわけですが、気がつけば似たようなお店がたくさんネット上にあふれ、私が書いた何かは語尾や言い回しを変えてコピーされ、お客様は大いに混乱されました。それ自体は、こ の世界ではよくある話です。だんだん、どこが安いかという軸にすべてが集約されていくようになり、お客様が知らないところで結局どこも体力を失い、消耗戦のようになってしまいました。これは、まさに日本という国が直面してきた構図と全く同じで、もっと別の見方をすれば、バイイングパワーを持つものだけが市場を制する骨肉の縮図です。調子のよいときは国民がそのメリットを享受しますが、自国、自社よりも強い存在が出てくれば、確実に落日の日はやってきます。国と国には為替(交換)という魔法があって、本来的ではないにせよ、政策如何によってある程度コントロールすることが可能です。そうやって国家間のバランスを利用した錬金術が生まれますが、これも永くは続きません、なぜなら所詮、本質的な祈りや願いが不足しているからです。「自国民が幸せになってほしいという祈りがあるだろう」と言われそうですが、自国の利益を過大に求めた結果、どうなるかは歴史に学べばすぐに答えが出ることです。会社や個人の利益も同じ構図を持っていることは、ご承知の通りです。私たちプレマ株式会社は直接の製造をすることはほとんどありません。そういう試みを去年からはじめていますが、まだまだ比率でいけばわずかです。わずかであっても、そこに祈りがあり、誰かが喜ぶ顔を想像しながらできる何かは、とても幸せなものです。製造業に携わっている人は、このような素晴らしいことができる、巨大な価値の源泉であることを共通認識とできれば、もっと素敵な世界がやってくるように思います。
流通を担うものとして
私たちは大枠において、流通業をやっています。流通の人間の意識するべきところは、どこまでいっても、これを必要としている誰かに、それが役に立つようにと祈りを込めてお届けすることに尽きます。「もの」に「こと」を乗せていくのが私たちの仕事の本質です。当然、それを生み出した誰かにも大きな価値と誇りを感じていただきたいですし、受け取る側にはこれを作ってくれてありがとうという感謝が必要です。あの大震災から3年が経ちました。ものも、情報もすべてが不足していた被災地に、まず何かを届けようという試みをされた方にはよく理解いただけると思いますが、必要なことはまず動機です。そこにものがあり、情報やもの自体を整理して、それを必要としている人に届けることです。祈り、祈りと強調すると、カルト的だと評されることは覚悟していえば、祈りや大きな願い、動機があるから、ものに価値が生まれます。それは、きっと安い、高いの世界ではなく、世界の何かが転じてできあがった「それ」に、強い価値を与えるのです。私たちもまた、中学校の卒業までに、大切な何かを自らの中にもう一度浸透させ、ディスプレイやキーボード、電話機に話しているのではなく、どこかの誰かに思いを乗せていることを再度思いだし、立派な卒業式を迎えたいと願っています。最後になりましたが、大震災で痛みを感じられたすべての存在に、あるべき姿にたどりつけますようにとお祈りを捧げ、本稿とさせていただきます。