福島第一原発の事故は、長期化することがはっきりしてきました。もともと、原子力発電を行い、そこで事故が発生すれば簡単にことが収まらないのは少し知識のある人ならわかることでしたが、起きた問題は簡単ではないということをやっとのことで国が認めようとしています。ネット上、または週刊誌などを眺めても、基本的にはエネルギー政策で原発を推進してきた国と東京電力の問題であって、それを糾弾しなければならないという論調が大半を占めています。確かに、この施策を指示し、直接的に実行したり、利権を得たりしてきた人たちがその責任を問われることは間違ってはいないでしょう。とはいえ、ただ誰かが悪いといってそれを認めさせれば、今後同じような問題は起きないのでしょうか。
この間、私は福島と沖縄を訪問しました。福島には3・11大震災と原発事故に対する支援のため、そして沖縄には予想される食糧問題を解決する糸口を見いだすために以前から行くことを決めていました。この2つの場所は地理的に大きく離れていて、原発のあるなしの状況も全く違います。この両方の場所でいろいろな人と話し、またはあちこちを見て回ることになって、とても似ていることがあることを発見しました。
似ていることのひとつは、どちらも自然豊かな美しい場所であることです。福島には、この事故の直前まで直接の取引などのご縁はなかったために、仙台に向かう通過点くらいの意識しかありませんでした。車で広く走ってみて、その美しさに息をのみました。浜通り、中通り、会津の3地域ともに気候も風土も違うことをはじめて知り、そしてそれぞれの雄大な自然と穏和な人々に魅せられました。沖縄も言うに及ばず、特に私は注目している宮古島はサンゴが変化してできた琉球石灰岩の上に島全体が乗っており、島全体がパワースポットともいえる贅沢な環境にあります。その海と海岸の美しさは東洋一の誉れ高く、破壊が進んでいるとはいえ、本土の人間にはため息が出るような場所です。
これらの2つの美しい場所には、また別の共通項があります。それは、地元の経済が助成金や補助金などに依存してきたという問題です。福島第一原発の災禍は、その絶大なリスクがこれらの「理由のあるお金」によって紐付けされていたという事実があります。原発誘致には地元自治体や地元経済にとって多大な恩恵があり、助成金などはもちろん、雇用という面からも地元住民の多数から歓迎されてきたという事情があります。沖縄の問題は基地であり、これも自然保護や住民安全という観点だけならば誰も容認しないわけですが、ここに経済振興というもうひとつの視点が入り込むことによって、まったく事情は変わってきます。いずれの件も「絶対に容認しない」層と、「経済振興のために受け入れる」層に2分されてきたわけです。これらは単に地元の人が望む、望まない以外の要素、つまり「国が、国策として原発なり基地などをどこかにおかなければならない」という全体としての目的があり、目的を叶えてくる場所には引き替えに対価を払う、という構造が底辺にあります。
「経済的な恩恵」は、短期的には地元が潤い、雇用も産まれることで一見よいようにみえます。しかし、中長期的には今回の事故のような多大なリスクや自然環境の破壊というわかりやすい問題だけではない根深い問題を生じさせます。それは、そのリスクを受け入れ対価をあらゆる形で受け取ることによって、地元本来の農林漁協や産業の振興が、言葉が適切かどうか難しいのですが、いわば「ぬるま湯」に浸かってしまうことだと感じています。
宮古島では国から多大な助成金がでるサトウキビや葉たばこの栽培が盛んです。助成金に依存した状態で、それさえ作れば少ない努力で買ってもらえるわけですから、多くがより簡単で楽な方法を選択してしまうのは致し方ないのです。これによって大量の肥料や農薬がサンゴ層でできた地盤に浸透し、地下水は汚染され、またそれが人や環境に対して好ましくない悪影響を循環させてゆきます。しかし、宮古島は温暖であり、冬でも耕作ができる場所で、地下水には大量のミネラルが溶け込んでいて、無農薬農業には素晴らしい適地でもあります。この素晴らしい資産を生かすことができれば、助成金に依存しなくても、本土に求められる素晴らしい野菜を生産することが可能なはずだと考えました。もちろん、流通の仕組みと消費者の理解や支援があってはじめて成り立つビジョンですから、私は福島と同じ構造をもつ災禍を起こさないためにもこれを事業化して、豊かな自然と経済の両立を可能にする仕組みを作り出してゆきたいと考えています。つまり、「誰かの責任」から「自分たちの責任」への転換が必要なのです。