医療者は、生後一分(およびそれ以降)の新生児の状態を五項目について採点し、「アプガースコア」として記録します。そのうち「呼吸努力」と「反射興奮性」については、泣き声を採点の重要な目安としています。泣くことが状態のよさを示すとみるのです。たしかに、泣くためには呼吸が必要だし、神経活性がじゅうぶんであってはじめて泣く行為が可能となります。そこで医療者は、生まれたての赤ちゃんはおおいに泣くべきであり、すこしも泣かないのは泣くちからもないからだと思うようになります。
しかし、新生児が泣くかどうかは、またべつの面からも考えてみなければなりません。というのも、自宅などで自然に生まれた赤ちゃんのおおくはほとんど泣かない、という事実があるからです。赤ちゃんは、泣かないで肺呼吸をはじめることができるし、泣くかわりに目をあけて周囲を観察したりすることができます。そういう赤ちゃんは、すこしも泣かないのに、問題なく元気なのです。
いっぽう、病院で生まれた赤ちゃんのおおくは、目をつぶって泣くばかりで、ほかになんの行動をとることもできません。まるで無能力者です。そういう赤ちゃんばかりを目にしていたら、新生児はただの肉のかたまりにすぎないと思ってしまうでしょう。じっさい産科医たちは、新生児を知覚も未発達な肉塊とみなして手荒くあつかってきました。いまではだいぶ改善されてきていますが、しょせん唯物医学の偏狭な認識眼では赤ちゃんの真実をとらえることは不可能です。
ヒトの赤ちゃんはかなり未熟な成長段階で生まれるというのは周知のとおりです。が、それでも母親の乳首に自分で吸いつくくらいの本能的能力はもって生まれてきます。生まれたての赤ちゃんは、目もよくみえるし、頭もうごかせるし、這って移動することもできます。
そればかりではありません。人間の赤ちゃんはたんなる肉体以上の存在です。新生児は霊覚者(霊的に目覚めたひと)です。生まれたばかりの赤ちゃんはよくわかっているのです。自分がどこからきたのか、なんのためにきたのか、家族のひとりひとりとどのような因縁にあるのか、を。それゆえ赤ちゃんは、はじめから家族のひとりひとりに特別な思いをいだいています。赤ちゃんは、その思いをこめて、家族のひとりひとりをみるでしょう。おだやかな場で自然に生まれた赤ちゃんは、たいていごく自然に両親や兄弟にあいさつをします。生まれたての赤ちゃんは、笑うこともできるし、ことばを理解することもできます(ことばを発する可能性さえあります)。
赤ちゃんは、まず両親にあいさつするかもしれないし、まず母親のおっぱいに吸いつこうとするかもしれません。わが家では、第一子・第二子ともにおっぱいがさきでした。第一子のばあいを記してみましょう。
お風呂で生まれた赤ちゃんは、「ああ」と声をだして呼吸をはじめ、一度も泣きませんでした。しばらくして母子は部屋にもどりました。母親のおなかのうえにのせられた赤ちゃんは、やがてモゾモゾとうごきだしました。胸まで這いあがって、正確に乳首に吸いつきました。しばらくチュクチュクしていましたが、そのうち疲れたようで、くたんとなりました。母親も疲れていたので、わたしはここらで母子をねむらそうと思って、電灯をやや明るくして、へその緒を切りました。それから母親の横に赤ちゃんを寝かせました。そのとたんに、赤ちゃんはパチッと目をひらきました。顔をさっとわたしのほうに向けて目で会釈し、またさっと顔を母親のほうへ向けて目で会釈しました。そして目をとじて安らかにねむりにつきました。
――これはごく平凡な例にすぎません。もちろんケースバイケースですが、概して自宅で生まれた赤ちゃんはものしずかで、自覚的です。あまり泣かないのは、泣く必要がないからです。逆に、病院で生まれた赤ちゃんがよく泣くのは、つらいからです。生まれるまでや生まれてからの医療的な処置が苦痛であったからかもしれません。一時的にせよ母親から引き離されたせいかもしれません。寒かったり照明がまぶしかったり音がうるさかったりするせいかもしれません。泣きやまないのは、おそらく、あれやこれやで自尊心を傷つけられたせいでしょう。
そうであるなら、新生児が泣くのをよろこんでみているおとなたちとは、いったいどういうひとたちなのでしょう。赤ちゃんのほうは生涯におよぶトラウマを負いつつあるかもしれないというのに。
さかのまこと
さかのまこと氏 自然哲学者。 慶応義塾大学文学部卒業。東北大学大学院博士課程修了。国語国文学を専攻とし、大学教授等を経歴。プレマ(株)代表中川のインドでの知己であり、常務佐々田の恩師でもある。また、生物学から宗教学にいたるまで幅広い関心領域をもち、夫婦だけで2人の娘のプライベート出産をおこなう。著書に『あなたにもできる自然出産―夫婦で読むお産の知識』等。 |